色即是空
春彦は嬉しさで有頂天になっている。隆子もほっとした顔で歓びをかみ締めていた。幸福がこれから始まるといった情景である。これでやっと落ち着いた家庭が築けるという思いが隆子にも春彦にも生まれていた。しかし、隆子の産後のひだちが思わしくなく、医者に診てもらうと、このまま赤子の世話と仕事を両立させることは難しい、無理をすれば隆子の体が壊れるから、どちらか一つを選びなさいというものであった。
春彦と隆子は深い谷に突き落とされたような衝撃を受けて途方にくれる。春彦一人では仕事をこなさないことは明らかだから、隆子は仕事を続けるほうを選ばねばと春彦に話す。春彦は、僕ひとりでやれる範囲で仕事をすればいいといって、哲を育てるほうを選ぶように言う。二人はこのことで思案を重ね結論を出しかねていた。結局、吾郎にも相談しようということになって、事情を説明すると、
「赤ちゃんは可知さんにあずけたほうがいい。今すぐとはいかないだろうから、時期を見て、俺から可知さんにたのんであげよう。養育費は当分の間、俺が届けるから二人は仕事に専念してほしい。隆子さんはその体で赤ちゃんを抱えて仕事することは無理だよ。仕事を立ち上げたばかりだから、此処で手を抜くと注文がこなくなるだろう。手許で育てたいきもちはわかるが、辛抱してほしい。二人の将来のためでもあるのだからね」
吾郎の言葉は、仕事優先のもので冷たいと隆子は気に入らなかったが、此処で吾郎に見放されると、たちまち生活に困ることになるので、二人はしぶしぶ承知せざるを得なかった。こんなことになるのなら吾郎に相談しなければよかったと、二人は後悔したが、ほかに選択肢のないことも明らかだった。それから数日後、
「可知さんが承諾してくれたから、預ける段取りをして欲しい。可知さん宅には春彦が行けばいい。隆子さんが行くと面倒になるかもしれないからね。隆子さんが哲君を手放したくないことは十分わかっているから、哲君と一緒に居残ると言い出したりしないように、ここは冷酷だけれど、春彦が一人で行ってほしい」
吾郎が宣告のように言った。これには春彦も隆子も驚いて顔を見合わせる。吾郎には子供が居ないからこんなことがいえるのだと春彦は腹を立てていた。隆子の表情も沈んでいる。こんなことがあってひと月が過ぎた頃、隆子が哲を抱いて田舎に向かった。春彦は可知宛に書いた手紙を隆子に託したのである。
春彦と隆子は再び、わが子を手放すことになった。どうしてこのような不幸が二人に襲ってくるのだろうか。それぞれに理由があったにしても、それだけでは納得できない。何か運命のいたずらにもてあそばれているようである。二人は、結ばれようとして引き離され、子を授かっても手許において育てられない。
「わたしたち、何かにのろわれているのではないかしら、わたしたちの結婚を邪魔し、子供が出来ればそれを奪ってしまう、恐ろしい力が働いているようで怖いのよ」
隆子は真実、おびえているようであった。二人の子の母親でありながら二人とも手放すように仕向けられて悲痛な思いに沈んでいる隆子をみて、春彦は慰める言葉も発見できない。
「菜穂子か奈美のどちらか、いや、二人が、僕に怨念を持っているのだろう。僕と隆子を絶対にそわせないと呪っているからこういうことになる。僕はそう思っている。隆子には何の責任もないのだ。それなのに隆子が一番苦しめられている。女が女を呪うほど恐ろしいことはない。隆子をめちゃくちゃにして、僕を破滅させようとしている。これ以外には考えられないよ」
春彦は本当に二人の女の呪いだと思っている。その呪いが隆子に向けられているようなのが悲しい。二人の生活は再び暗転しようとしている。それを二人は必死ではらいのけようとして悶えているのだ。
「菜穂子さんがどうしてわたしを呪うの。真理子をわたしてあげたのよ、あの人が育てると言うから。そのこと自体が理不尽なのに」
「僕の子を産んだことが許せないのだろう」
「だって、わたしたちこそ本当の夫婦でしょう。菜穂子さんはわたしからすれば、あなたの不倫相手じゃないの」
隆子は不安の苛立ちを春彦に向けている。正式の結婚届は菜穂子が先であるからこのようには言えないのだが、田舎で結婚式を挙げた時点から言えば明らかに春彦の不倫なのだ。その相手の菜穂子から責められる理由はない、まして菜穂子に呪われるなんてまったく逆じゃないかと隆子は怒りを春彦にぶつけている。
「僕がわるいのだよ。菜穂子のことは隆子に隠していたし、母の奈美には嘘を言って家出したし、隆子をもふみつけにしたのだ。それがこのような結果を招いた。『あの女さえ居なければ』という恨みが隆子に向けられたとしか思いようがない。隆子は僕のかわりに生贄にされている。二人の子供を手放さなければならなかったのはそのためだよ。僕も悲しいけれど、それ以上に隆子が悲しんでいることはよくわかる。許して欲しい、そして、一緒に出直すために力を合わせたい。菜穂子と母・奈美の恨みや呪いに隆子が負けてしまえば僕たちは破滅だ。真理子と哲が居ないのは淋しいけれど、その分自由になったと思い直してがんばろうよ、頼むから元気を取り戻して欲しい」
春彦は隆子の心の痛みを本当はわかっていないのだろう。随分と身勝手なことを喋って、それが慰めになったと思っているらしい。隆子は黙って聞いていたが、
―この人は女の気持をまったく理解できない人だ。善人なのか悪人なのかもわからない。これまでずっと、このようにして騙されてきたような気がする―
と、春彦の顔をじっと見詰めている。嵐が吹くような予感を抱えながら春彦は、どうしようもない自分をあきらめるように日々を過ごしていた。
―僕は僕以外のものにはなれない。僕の原点は本当の両親とまだふたつの頃に死にわかれたことだ。なんだかそのときの悲しみがこの体の中に住み着いているように思う。あの歳では何もわからなかったはずだのに潜在意識にこびりついているようなのだ。その悲しみが母のような女を慕う感情をひきおこすのだろう。これはひょっとすれば母の悲しみが僕に乗り移っているのかもしれない―
春彦は一人で居るときこんな思いに襲われる。養母の奈美にかわいがって育てられたのに、自分のどこかでそれを素直に受け入れていないことに気付くことがあった。その感情は成長するとともにふくらんではなれない。それも今となっては遠い昔のことなのだが、時々鮮明に浮かび上がってくる。