色即是空
これからまもなく隆子は春彦のもとに戻る。春彦が一度も隆子の勤めるオフイスを訪ねてこなかったことをなじったりしないで、隆子は機嫌よく春彦を再会し、何事もなかったかのように、食事をともにしている。その姿は、長期出張から戻ってきた夫を迎えるような雰囲気だった。戻って来たのは隆子で、春彦はその帰りをこの家で待っていたはずなのに、これでは立場が逆転している。
「真理子は菜穂子さんに預けたし、二人でまた生活をやり直そうね。吾郎さんがあなたの出社を待っているって。欠勤した分は有給休暇に振り替えてくださるそうよ」
隆子は吾郎の好意を伝えるように言ったが、それが春彦にはあまり嬉しくなかったらしい。
「どうしてそんなことまで知っているのだ」
春彦は食事の手を止めて隆子を上目で見てなじるように言った。
「だって、吾郎さんはあなたの将来を心配して、いろいろ助けてくださっているのでしょう。妻のわたしに相談されるのも当然じゃないの」
「何を聞いたのだ」
「それを聞いてどうするの。聞かないほうがあなたのためにいいのじゃない。そんなことより、未来志向で再出発しましょうよ」
隆子は落ち着いている。隆子が留守中の春彦の放埓な行状が、吾郎から隆子の耳に届いていることを、春彦はわかっているはずだと、隆子は推察していたがそれを口にはださなかった。それを言ってしまえば春彦は自分から離れるという危惧が隆子にある。
「この東京で成功しないと田舎から出てきた意味がないでしょう。わたしは母を安心させたいし、あなたも奈美さんに対する意地があるでしょう。 いつかその日が来たら正月に田舎に行こうよ。それを目標にすれば張り切れるでしょう」
隆子に、田舎へ行こうといわれて、春彦は郷愁をもよおしたらしい。
「そうしようか。このままでは幻滅するばかりだから」
春彦がやっと話し出した。その顔が少し明るくなっている。隆子が自分のやったことを非難しないとわかったのであろうか、なんとなくおどおどとしていた雰囲気が消えてきた。その変化を隆子は敏感に察知している。
「そうよ、そう来なくちゃ。春彦さんらしくないよ。あの山畑での働きぶりを取り戻せばいいのよ。いまの仕事が嫌だったらほかの仕事を探せばいい。わたしと一緒にSOHOしてもいいのよ。編集工房や小さな出版社を立ち上げてみない」
隆子は、このときとばかり誘いをかけた。春彦がやる気を起こしているチャンスを逃したくなかったのである。春彦は隆子に励まされてやっとやる気を出したように出社するようになった。吾郎は機嫌よく春彦を迎え入れる。
「春彦の昔を知っているから俺はお前を大事にしている。それに隆子さんは俺の遠縁の娘なのだ。いままで黙っていたが、隆子さんのために言っておいたほうがいいだろう。彼女と俺の仲を疑られたりすると困るからね」
吾郎は、半ば笑いながら、隆子との仲を春彦が疑っているらしいことを感じていた。
―春彦は、女のなかに母親をもとめているのだよなあ。 ふたつのときに母親に別れ奈美さんと子にもらわれてきたのだから、無理もないよなあ。だから、女の子に優しくされるとすぐについてゆくのだ。女たらしとは反対で、女にすがりたい気持があるのだなあ。それで商売女の手管にはまったりする。隆子が守ってやらないと春彦は駄目になる。俺はそのために手を貸してやろう―
吾郎は春彦を前にして,言葉にはしないが、自分に言い聞かせている。春彦は吾郎の思いが以心伝心で伝わったのか、伝わらなかったのか、思案顔で対座していた。
「編集工房をやる気があれば、サロンやクラブやプロダクションなどの注文をとってくるよ、文芸誌や情報誌などの仕事も請けてくる。隆子さんと一緒にやってみないか。オフイスは俺が用意する。出来るだけ早くいい返事してくれるのを待っているよ」
吾郎は春彦の気持を窺がっている。春彦が嫌だといわないように隆子にはすでに手を回していた。春彦には思い荷を背負わせないと立ち直れないだろうと、吾郎はこのプランを隆子と相談して決めたのである。
春彦の荒れきった心を癒し元気を取れ戻させるのは隆子以外には居ないと吾郎は、隆子を説得し、春彦が再びほかの女に走らないように愛情を注いでやれとも隆子に言ってある。今日この場に隆子を呼ばなかったのは、春彦の面子を立て、独自に決心させるためだった。
このことがあってから春彦と隆子は再び夫婦生活を取り戻し、吾郎が用意してくれた編集工房の仕事も順調に進む。吾郎の会社の下請けという格好であったから営業の苦労はない。春彦は編集マニュアルを手本に仕事をするので標準的なことはこなせる。
隆子はデザインには特技をもっている。彼女は中学時代からアートデザインを習い始めパソコンにも慣れているのでウエブ・デザインも出来る。隆子は生来勝気で自分から進んで何でも新しいことに挑戦するクセがあった。田舎に居ながら都会の流行にはおくれたくないと、可知にねだってパソコンを買ってもらい、好きなデザインをパソコンでやるようになった。それがいま役立っている。春彦にパソコンを教えたのは隆子である。
隆子のリードで生活が順調に進むようになると、春彦にも隆子に負けたくないという意地が出てきたのか、仕事に向かう姿勢が積極的になっている。それを横目で見ながら隆子は喜んでいた。
「この分なら、わたしたちはうまくやっていけそうね。結婚届をまだ出していないのだったら、もう出してもいいのじゃない。わたしは以前から出してくださいといっているでしょう」
隆子は春彦が結婚届をためらっている理由がわからなかった。わたしがいいといっているのに、どうしてためらっているのだろう。菜穂子さんのようなケースがほかにもあるのだろうかと心配している。まさかそんなことはないと思っているのだが、女に優しすぎるのがこの人の欠点だと隆子は感じているようである。
春彦はそんなこととはつゆ思わずに、結婚届をまだ出していなかったことを思い起こして、
「明日にでも出してくるよ。ごたごたですっかり忘れていたのだ。二人で出しにゆこうか」と、明るい顔で言った。
「食事が済めば、急ぎの注文に取り掛かるから手伝ってよ。イラストはわたしが書くからナレーションをつけてね。絵本のように仕上げて欲しというかとだったからそのつもりでお願いね」
隆子は、夕飯の片付けをしながら、気分を変えて明るく喋っている。それまでの心配をすっかり忘れたかのように振舞っているのがかえっていたいたしい。しかし、そうでもしなければ暗くなることを隆子は心に感じていたのであろう。
このあと、隆子の舵取りで二人の生活は順調に経過した。仕事と家庭を両立させるために隆子が払った苦労はかなり大きいものだったが、春彦が落ち着きを取り戻して仕事に熱中するようになって、女の影もすっかり消えている。
哲が生まれたのはそれから一年半後である。男の子が生まれたというので春彦の喜びはかくべつだった。
「出かしたぞ、隆子。跡取りができた。大きな顔で田舎にも知らせることが出来る。半年もしたら田舎に連れて行けるだろう。奈美にも可知さんにも見せてやらねば」