色即是空
(菜穂子さんに真理子を預けます。わたし一人では育てられないから、真理子のためにはその方がいいと決心しました。わたしは、この家には帰ってきませんが、結婚届は出してください。春彦さんとは別れるつもりはないのですが、しばらくひとりでいたいのです。気持の整理が付けば居所を知らせます。自活できる人間になって、菜穂子さんを見返したいと思っています。春彦さんも田舎に居たときのような強い人間に戻ってください。菜穂子さんにいいようにされている春彦さんが哀れです。立ち直ってください。さようならは言いません、戻ってくるのですから。しばらく一人暮らしになりますが我慢してください。隆子より愛をこめて)
春彦は立ったまま何度も読み返して、目から涙を落としている。その涙は感涙なのか、自責の涙なのか、春彦の肩が揺れている。
隆子の行方がわからなくなって数ヶ月後、春彦は菜穂子から二人の離婚が成立したと知らされる。春彦は冷え冷えする部屋に一人座っていた。
―僕の人生はどうしてこんなになるのか。二歳のときに死んでしまった両親の顔はまったくおぼえていない。玄と奈美を実の両親と思って育ってきたのに、養子だと知らされてからは、何かにつけて遠慮するようになった。それが子供心をどれだけ傷つけ萎縮させてしまったことか。僕は山畑で働くことだけに生きがいを求めてきた。 それなのに、玄が亡くなってから奈美は彦太郎を引き入れるし、その子の雄介まで養子にすると言い出したので、僕の居所がなくなった。隆子とあの家であのまま結婚して暮らせば、僕たち夫婦は農奴のようにされてしまう。僕はそれがいやだった。だから家出したのだが、二年経った頃に隆子がやってきた。もっとはやく隆子がきていれば、菜穂子とのことは起こらなかったのだー
春彦は残念を胸にだきしめながら、自棄酒をあふって居る。テレビを見ても面白くない、本は勿論読む気もしない。何もかもがもどかしいばかりで、何をどうすればいいのか、まったく見当も付かない。唯一つ、春彦の頭には隆子を捜そうという火が灯っている。だけど、春彦はそれを行動に移す気力をいまは持ち合わせていない。隆子の家出で打ちひしがれているのだ。
春彦の行動が荒れだしたのはこの事件がきっかけだった。会社には出社しんくなったし、夜は盛り場をうろつく日々が続いている。浪費のために金がなくなると、知り合った女たちに貢がせるような生活に転落した。春彦は女をひきつける不思議な魅力を持っていたのである。彼の友人で雇い主である真島吾郎は、同郷の幼友達である春彦に同情して、
「心の傷が癒されるまで休養すればいい。憂さ晴らしに疲れたら会社に戻って来い。それまでの生活費は俺が面倒見よう。隆子さん捜しにも協力するから何でも相談してくれ。女にすがるような卑しいまねはするなよ。女に出してもらった金は必ず返せ。あとを引けば面倒なことになる。俺が立て替えて払ってやるから、女に借りは作るな。女の親切は恐ろしいことを、菜穂子さんのことで十分経験したはずだ。隆子さんに再会できたら真っ先に誤れよ。そうすれば、隆子さんは戻ってきてくれる。家出するときに、結婚届を出していいと置手紙をしたのは、彼女が君を愛している証拠だ。君が立ち直れば隆子さんは必ずもどってくる」
ある日、吾郎は春彦に会って諄々と諭した。 このとき、吾郎は隆子の居所を知っていたのだがそれは告げなかったのである。今の状態の春彦を隆子にあわせたくなかった。隆子が吾郎に連絡を取っていることを春彦が知れば、吾郎と隆子の仲を疑って、春彦が何をするかわからないという懸念を吾郎は抱いていた。
隆子は吾郎に世話してもらったプロダクションにいまもなお勤めている。春彦がそこを訪ねていれば隆子に会うことも出来たはずなのに、春彦はそれさえしないで、荒れた生活を続けている。
「春彦は隆子さんに戻ってもらいたいのに率直にそれが言えないようだ。菜穂子さんとの結婚を隠していたからね。事実上は菜穂子さんと別れていたにせよ、法律上は夫婦なのだから隆子さんとは結婚できない。そのことを隆子さんに明かさないで春彦は隆子さんとの結婚を前提に同棲し真理子ちゃんが生まれた。そこへ、菜穂子さんが現われて、春彦の妻だといったのだから、隆子さんが吃驚仰天し、泣き崩れてしまったのは、当然のことだ。 それまでのいきさつを考えれば一切の責任は春彦にある。隆子さんが家出したのも無理はない。よく、真理子ちゃんを手放す決心をしたものだと、感心している。隆子さんのその強さが春彦にもあれば、こんなことにはならずに済んだ筈だ。春彦を立ち直らせるのは隆子さんしか居ないと思う。春彦のもとに帰ってやってくれないか」
吾郎が話している相手は隆子である。場所は吾郎のオフイスの応接間で、菜穂子が同席している。吾郎が、春彦の今後のことについて相談に乗って欲しいことがあるから、ご無理でもぜひお越しいただきたいと菜穂子に頼んだのである。菜穂子は二人の話を黙って聞いていた。
「春彦さんを見捨てては居ませんから安心してください。私自身の心の整理が付けば戻ります。春彦さんにわたしを訪ねてくる勇気が戻れば嬉しいのですが、まだ当分は駄目なのでしょうかね」
隆子は意外と落ち着いている。傍に菜穂子がいるから心のうちで牽制し合っているようでもあった。
「春彦にその勇気なんかないでしょう。あの人は自堕落な生活が身に合っているのですよ。真島さんが、今日此処へ来て欲しいといわれたから来たのですが、わたしに何の御用があるのかしら」
菜穂子は、この場に立ち合わせさせられることが不本意であるのか、不機嫌である。
「春彦は、あなたによって破滅させられたも同然ですよ、少しは同情してやってください。あなたに此処に来ていただいたのは、春彦と隆子さんから真理子ちゃんを取り上げた慰謝料を払う約束をしてもらうためです。実子を奪われた二人の心の痛みをわかってやってください」
吾郎は毅然とした態度で話を切り出す。吾郎には、菜穂子は高慢で自分勝手な人間にしか見えていないようであった。
「慰謝料を払えだって、何を言われるのですか、慰謝料をいただきたいのはわたしのほうですよ。わたしという妻がありながら家出して、勝手に隆子さんと同棲したのですからね。その不倫の子を不憫に思ってわたしが実子に入籍してあげたのだから、お礼を言ってもらいたいぐらいですよ」
菜穂子は怒りをあらわにしている。その手は震えていた。
「もういいのです。わたしから真理子を菜穂子さんに預けたのですから。真理子を立派に育てていただければそれでいいのです」
隆子は自分の決心でしたことだと言ったが、心の底には無念な思いが残っていることは傍目にも明らかだった。
「話はつきましたよね。わたしは帰ります」
菜穂子は荒々しく席を立った。吾郎と隆子は目を合わせ、菜穂子を玄関に送った。
「釘を一本刺しておいたから、春彦と隆子さんのことにあの人は二度と口は出さないだろう。安心して二人の生活を再構築しなさい。春彦のところに早く戻ってやるのがいいよ」
吾郎は隆子に優しく慰めるように言った。隆子はわずかに涙を見せている。