色即是空
春彦はそのことをやがて気付いて菜穂子から離れる。純朴な春彦にとっては耐え難い屈辱だった。自分のうかつさを悔やむと同時に、菜穂子に対する憤慨に悩ませられる。そんなときに、隆子が春彦のもとに来たのだった。
真理子が生まれたとき、春彦は隆子と二人で育てるのがたのしみであったが、隆子も自分も働きに出ているので、日中はベビーハウスに預け、仕事が終われば隆子が家に連れて帰る日々が続いている。その姿は傍目には幸せな若夫婦であった。
しかし、春彦と隆子は婚姻届が出せない状態に置かれている。菜穂子と春彦は戸籍上では夫婦であるから、これを解消しない限り、隆子は春彦の妻にはなれない。そんなことをまったく知らされていない隆子は、春彦に婚姻届を出そうと迫る。
「どうしてしぶっているのよ。真理子がかわいそうでしょう。結婚式は田舎ですませてあるのだから、あなたの母さんもわたしの母さんも承知のうえよ。それともほかに、婚姻届を出せない理由でもあるの?」
隆子は女の勘で何かを嗅ぎつけているらしい。春彦の心の底を窺がうような目で見ている。春彦にはそれがまぶしい。
「別に何もないよ。そのうちに二人で届出に行こう」
春彦はこれだけ言うのがやっとだった。
菜穂子とのことはいずれあかさねばならないが、そのタイミングを捜しあぐねている。菜穂子との離婚が成立しないと二人の子としての届け出は出来ない。そうするためには、隆子という女がいて、二人の間には子が生まれたことを菜穂子に打ち明けねばならない。現在は、菜穂子から離れているのだから、それにこの結婚は菜穂子から持ちかけられたものだから、離婚を申し出ても罪の意識に悩ませられることはないと思うのだが、春彦は何故かためらっている。
事態が急変したのは、菜穂子が春彦の居所を突き止めて訪ねてきたときである。そのときは、春彦も家に居て、隆子が真理子の世話をしていた。玄関のチャイムが鳴って女の声がする。春彦がドアを開けると、菜穂子が立っている。春彦に電撃的な衝撃が走った。菜穂子が無言のまま部屋に入る。 隆子が真理子をあやしているすぐ傍に菜穂子画ぬっと立ったので、隆子は瞬間的に真理子をぎゅうと抱きしめ、菜穂子を見上げた。
「春彦の妻です」
菜穂子と目を合わせた隆子は、驚いて顔が真っ青になっている。遅れてやってきた春彦に、
「説明して頂戴」
隆子が必死の思いですがるように言った。春彦はたじろいでいる。隆子と菜穂子に挟まれた格好の春彦は、何をどう説明していいのか、弁解の糸口を探せないで突っ立っていた。
「春彦は家出していたの。その間にあなたを咥え込んだのでしょう。あなたには独身の顔をしていたのでしょう。独身だといわなかった? わたしと結婚しているくせに。子供までつくって、不倫もいいとこよ。 あなたは騙されていたの」
菜穂子は激怒してまくし立てた。 作家などというものではなくて、阿修羅のような女になっている。
「そうじゃないのだ。そんなことを言えば隆子がかわいそうだ。僕と隆子は田舎で結婚することが決まっていた。その前に僕が東京に来てしまったので、すべてが狂ってしまったのだ。あなたとの結婚が最大の誤りだった。僕は あなたの押し付けた結婚を断わるべきだったのに、僕の出奔で隆子は結婚をあきらめたと思い込んで、あなたと結婚してしまった。でも、あなたは僕を下僕のように扱った。それに耐えられないから僕はあなたから離れたのだ。その直後に、隆子が僕を訪ねてきた。僕はあなたと結婚していることを隆子に言いそびれて、そのまま結ばれた。隆子を失望させたくなかったのだ。ちょうどいい機会だ、あなたとは離婚する。真理子は渡さない、僕たちの子だ]
春彦の様相は切羽詰った感情を表に出している。
「よくそんなことが言えたものだね。不倫の子にしたいのか、真理子はわたしの籍に実子としていれるよ。お前とはこちらから離婚する、後は隆子さんと二人で好きなように暮らせばいい」
菜穂子は罵倒を浴びせている。
「その子をもらってゆくよ」
菜穂子はそう言いざま、真理子を膝に抱いて泣いている隆子から真理子を取り上げようとした。隆子が抵抗し、真理子が大声を上げて泣く。春彦は菜穂子を引き離そうとその和装の背首を鷲掴みする。咄嗟のこととはいえ、春彦にこんな大胆なことをする勇気があったのだ。菜穂子が驚く。
「帰れ、離婚届にはサインしてある。これを持って帰れ」
春彦のすごい剣幕に菜穂子がたじろいだ。その隙に、隆子が真理子を抱いて部屋を出る。春彦があとを追った。
この日を境に、隆子は春彦を寄せ付けない。隆子は春彦と口を利かないで、自分の部屋に篭りきり、真理子をあやしている。家事のすべてを隆子が放棄してしまったので、春彦は独身のときのように自分で食事の用意も洗濯も掃除もしなくてはならなくなった。 隆子が動き出すのは春彦が勤めに出てからである。勤めを終えて帰宅しても出迎えにも来ない。こうした日が二十日ほど続いたある日、
「わたしは田舎にも帰れないし、此処にも居りたくないから真理子を連れて別居したい。真理子のために結婚と出産の届は出してください」
隆子が決心したように言った。この結論を出すのに隆子は長い時間をかけていたようだった。春彦は救われたような顔で頷いているが、真理子を引き取ると言った菜穂子の顔が浮かびだしてくる。
この数日後、春彦は菜穂子に会って、隆子の希望を聞き入れてくれるように頼んだが、菜穂子は真理子を引き取るのが条件だといって譲らなかった。
「真理子をわたしたちの籍に入れてから離婚届を出すことに決めている。それでよかったらあなたを自由にしてあげる」
菜穂子は春彦の不倫をなじるような眼差しだった。その目の奥には復讐の炎が燃えている。隆子から出産したばかりの赤ん坊を取り上げることが、どれほど残酷で非情な仕打ちであるかを女として知りぬいた上での宣告だったのだ。
春彦は菜穂子の申し出を受け容れるしかないと思い、隆子を説得できるだろうかという不安を抱えながら、すごすごと引き下がった。帰宅の途次、どうして隆子と真理子を引き離せばいいかと、重い思案を重ねている。
―隆子は真理子を渡さないだろう。強引に奪ってしまうしかない。そうすれば、隆子は狂乱するかもしれない。そうなれば、僕も隆子も破滅だ。何とかして隆子を説得しなければー
名案も浮かばないままに、春彦は家に帰り着いた。 玄関のドアをあけると、冷たい風が流れてくる。物音一つしない。春彦は不安に襲われて、部屋に足を踏み入れると、隆子も真理子も居ない。
「まさか、家出したのでは・・」
春彦は立ちすくんだ。あたりを見回すと、食卓に食事の用意がしてある。その傍に一枚の紙が置かれていた。慌ててそれを取り上る。