色即是空
「まだ入籍してないからうちの嫁ではない。この結婚はなかったことにします。それなら、可知さんも気が楽になるでしょうが。春彦も帰ってこなければ養子の籍をはずします。失踪宣告をすればいいと彦太郎が言っているで、それがよかろうとわたしも思っているのよ。二人して駆け落ちしよったのだろう。春彦はせっかく育ててやったのに、恩をあだで返しよった。そんな男でもよければ隆子と結婚すればいい。うちには関係のないことじゃから何も文句は言わん。可知さんも女手一つで育ててきた娘に裏切られたのよ。うちは、彦太郎の息子を養子に入れるから跡取りが決まって安心しとる。縁がなかったものとあきらめてくれればそれで結構だからもう連絡してもらわんでもいい。それよりも自分のことを大事にして達者で暮らしなされ」
電話はそれで終わったが、可知は穏やかでなかった。完全に無視されてしまったという思いが悔しさに変わっている。
東京に出た隆子は、青山の表参道の近くにある春彦のマンションに直行している。メールで打ち合わせてあったから、その場所はすぐにわかった。午後六時過ぎで、この街は人手うずまっている。往来が激しい。山間部から出てきた隆子にはめまぐるしくて圧倒されそうである。人垣を分けて歩きながら隆子は、春彦に会う期待で胸を躍らせていた。道順はメールで連絡を取り合いながら進んでいるから迷わずにマンションに到着する。
「待っていた」
ドアが開いて春彦が顔を出す。急いで近寄った隆子を春彦が抱くように招き入れる。隆子は素直にそれを受け容れている。恋人同士が久しぶりに会って再会に感動している姿がそこにあった。
「春彦さんは居なかったけれど、結婚式はすませたのよ。わたしが春彦さんと一緒になるという意思を示すためにね」
「新婚初夜は今日まで延期していたってわけだな」
隆子が顔を赤らめ、恥じらいの素振りをしたが両眼の瞳はかがやいていた。春彦はそれを見定めるように見ている。
「隆子の到来を祝って、今夜はフランス料理にしよう。この近くにいい店があるのだ。吾郎も呼んで、三人で祝杯を挙げよう。吾郎は郷里の中学時代からの友達で、早くから東京に出てきている。いま僕は、彼の事務所で働いているのだ。君を彼に紹介しておきたい。君の働き口を世話してもらいたいと思っているのだよ」
二人は話しながら店に向かっている。隆子はしっかりと春彦に寄り添っていた。十数分歩いて、目指す店に着く。
「此処は評判の店だから客が多いのだが、予約してあるから大丈夫だよ」
春彦がそう言って店に入ると、外人らしい若者が外国訛りのある日本語で、
「お待ちしていました」といって案内した。
席はカウンターの奥の個室にリザーブされていて、吾郎がすでに来ている。
「花嫁さんをお迎えしたいと思って早めに着いたのだ」
吾郎は、赤いドレスを着た隆子を見て立ち上がって挨拶した。そのついでに隆子を観察している。
「隆子です」
隆子は深々と頭を下げる。三人が着席すると、ボーイがオーダーを取りに来た。春彦がメニューから選択する。この後、料理がはこばれてくるまで、会話が弾みだした。
「ずいぶん若い嫁さんじゃないか、うらやましいなあ」
「働き口を探してやってくれよ、よろしく頼むよ、真島」
「新婚早々じゃないか、しばらくは仲睦まじくやるべきことがあるだろう」
「それは、言われるまでもないよ」
「隆子さん、就職よりも愛し合うことが先だよね」
吾郎は粘りつくように言う。隆子の若さにジェラシーを感じているらしい。隆子は含み笑いをしている。このとき、料理が運ばれてきた。
春彦と隆子の新婚生活は、これからしばらくは蜜月の楽しみに身を任せるままに過ぎたが、いつまでもそのような状態がつづくものではない。隆子から距離を置くようになって、春彦がなんとなく不満を抱えるようになったある日、
「真島さんから、お電話いただいたの。わたしの就職先が見つかったのだって」
春彦が勤めからかえってきたとき、隆子は夕食の用意をしながら、嬉しそうに話した。席についてそれを聞いている春彦は、なんだか不機嫌そうな様子である。
「昼間、吾郎に会ったが、そんなことは何も話さなかった。先に僕に話しても良いはずだが。あいつ、隆子と話したかったのじゃないか」
「まさか、どうしてそう思うのよ」
隆子が驚いて聞き質した。
「最初、レストランで会ったときから、吾郎は隆子に目をつけていたようだ]
「だって、わたしの就職先を探してくれって、春彦さんが頼んだじゃないの」
「それで、就職先はどこだと言った」
「真島さんの系列のプロダクシンだって」
「詳しい名前は?」
「言わなかった」
「仕事はなんだ?」
「マネージャーのアシスタントだと言ったわ」
「どう返事したのだ」
「春彦さんと相談してから返事するといったの」
「上出来だ。僕が調べる」
春彦はやっと機嫌を取り直した。隆子はほっとしながら、食事を始める。隆子と生活を始めてから春彦は、家のぬくもりのようなものを感じているのか、食事を取るのにも余裕が出ていた。その半面で、隆子のことになると、異常なほどに神経を立てる。隆子を誰にも取られたくないという気持が先立っているのであろう。そのとばっちりが吾郎に浴びせられたような一幕であった。
この夜、春彦は隆子に東京で暮らしてゆくには何事にも用心と警戒が必要だということをくどくどと話し、特に吾郎のような男には簡単に心を許してはいけないと付け加えた。
隆子は春彦の了解を得て真島プロダクシンに就職するが、春彦と同じ職場は避けて別の関連会社に出向する。そこでの仕事はプロジューサー助手ということだけれど、実際は雑用係のようなものであった。順調な月日が過ぎる。その頃に、長女の真理子が生まれた。
これが面倒なことを引き起こすことになった。隆子が田舎から来る前に、春彦は作家の菜穂子と結婚していたのである。だが、菜穂子は気性の強い女で、事毎に春彦を無視するような態度がちらついていた。それならば結婚しなければよかったのだが、春彦の優しさに惹かれてもいたようである。
菜穂子にとって、春彦は猫や犬と変わらないペットのようだったのだろう。だから、春彦が自分の意思を示して立ち向ってくると、邪険に扱ったり拒否したりする。そのよう菜穂子に春彦は何故惚れたのだろう。
春彦と菜穂子の出会いは、出版社に勤めていた頃に、春彦が菜穂子の担当になったのがきっかけだった。田舎から出てきた春彦は、田圃に鶴が舞い降りたときの姿を菜穂子に見たのである。それ以来、春彦は菜穂子の虜になった。菜穂子は春彦の素朴さが気に入ったのか、食事にも誘うようになっていた。そのうちに、春彦を家に泊めるようになる。これは春彦が田舎から出てきてすぐの出来事であった。
ある日のこと、菜穂子が春彦に結婚届けを出すからとサインを迫る。春彦は菜穂子の言うままに承諾した。春彦にとってそれは愛の証だと思われたのである。しかし、菜穂子には、作家生活を脅かすような醜聞が雑誌やテレビなどに嗅ぎつかれる前に処理したいという思惑からの行動だった。