色即是空
春彦は逆らわなかった。だが、積極的に賛成したのでもないことはその表情から読み取れた。
春彦の結婚と彦太郎の婿入りの披露の日取りが決まって、奈美がいつに無くいそいそと働き、春彦にも笑い顔を振り撒いている。
「手伝うことがあれば、遠慮なく言いつけてくれ、披露の日までに家の中も庭周りもきれいにしておかねばならんでのう。 盆と正月が一気に来たようなものじゃ、猫の手も借りたいが、この家には犬しか居らんで、役にはたたん。そうだ、隆子さんに手伝いに来てもらおうかねえ、春彦、お前が呼んできてくれんかのう。もううちの嫁同然なのだから、」
奈美が突然、春彦の耳を疑わせるようなことを言った。隆子が嫁同然だというのは、嫁いで来る前から隆子を使役するのが当然だと何のためらいも無く思っているらしい奈美の姑根性を丸出しにしている。
―彦太郎に手伝わせればいいじゃないか、何故、隆子なのだ。彦太郎とはすでに男女の関係も出来ている仲なのだから遠慮は要らないだろう―
春彦には奈美に対する不信が芽を出している。
―隆子をこの家の嫁にするのは、隆子を不幸にするようなものだ。彦太郎と奈美にこき使われる下女にはしたくない。僕自身もどう扱われるか不安だ。彦太郎と雄介が乗り込んでくれば僕は邪魔者にされるだろう。奈美は彦太郎に惚れているから、彦太郎にいいようにされてしまうのは目に見えている。この結婚はしないほうがいい。そのためには、僕が姿を消せば、自然に解消するだろう―
春彦はとんでもない決断をしようとしていた。彦太郎と奈美を隆子の舅と姑には絶対にしてはならないと春彦は覚悟を決めているようだった。もしそうなれば、隆子は下女のように駆使されるだけだ。同じような境遇の「農家の嫁」を幾例も見てきたので、あのようにだけはさせたくないと思った。
二
「仕事もいちだんらくしたから、しばらく暇をもらって、東京へ行かせてもらう。いいだろう」
春彦がこう言い残して家を出たのは、結婚式を一週間後に控えた晩秋の朝である。その日は、珍しく暖かくて、さわやかな空気が漂い、奈美もおおらかな気分になって、春彦の東京行きを励ますように見送った。二、三日すれば帰ってくるだろうというのが、この場合の常識であったから、奈美には何の懸念もなかったのだが、春彦は帰ってこない覚悟を決めていたのである。
出奔に先立って、春彦は同郷の友人で東京に出て仕事をしている真島吾郎とメールで連絡を取っていた。
「吾郎のオフイスで働かせてくれ、この家は出るつもりだ。隆子との結婚のことは前に知らせたように、このままではするつもりはない。東京に出て生活のめどが付けば呼び寄せるつもりだ」
このメールは隆子との結婚の日取りが決まった直後に打ったものだ。それからの春彦は、出奔の日を窺がっていたことになる。反論しても聞き入れない奈美の性癖を春彦は知り抜いていたからであろう。
彦太郎を婿にするという奈美の話の中には、自分の存在は含まれて居ないも同然だと、春彦は唖然とし、これまで信じて来たこと、つくしてきたことが、宙に浮いてしまった空虚感を春彦は味わった。隆子との結婚が家の働き手を得たいばかりの思いから奈美が勧めたことにも春彦は反発している。
春彦の出奔は、奈美にとって、まさかのことであったから、結婚披露の当日まで奈美は春彦の帰りを待ち続けていた。この日は朝から雨で寒々しく、すでに前夜のうちに到着していた彦太郎が、奈美をせかせて暖房の用意をさせていた。
「春彦はまだ戻らんのか、結婚式に間に合わんぞ、連絡はないのか」
彦太郎が奈美に不満そうに尋ねる。奈美は不安がつのってきた。
「東京で事故にでもあって連絡出来んのかのう。可知さんと隆子がそろそろ到着するかもしれんのに、どうしたことじゃ」
奈美は困りきっている。
「新郎の居ない結婚式なぞ出来んじゃないか」
彦太郎が怒り出していた。
「電話するにも、居所がわからん」
奈美は彦太郎の怒りを鎮めようと懸命になっている。
可知と隆子が揃ってやってきたとき、武蔵が低く吼えていたと思うと、急に可知に飛び掛った。驚いたのは、可知だけではない。出迎えに出ていた奈美と彦太郎も「あつ」と声をあげる。すでに座敷にあがっていた数人の客も立ち上がって見ていた。
雨は小止みになっていたが、土が濡れていたので、可知の衣装に泥水が飛び散る。並んで歩いていた隆子の服装にも泥の飛沫がかかった。隆子は手に捧げ持っていた花嫁衣裳のケースを手から落としそうになった。
「犬を何故繋いでおかないのだ」
彦太郎が奈美に怒鳴った。奈美が慌てる。家の中から手伝いの女が出て来て可知と隆子を座敷に案内した。
さてそれからが大事になる。新郎の春彦が居ないことがわかって可知がさわぐ。奈美がそれをなだめようとして躍起になっている。招待された客たちも唖然として様子を眺めていた。
「新郎の居ない結婚式なんて、聞いたことも見たこともない。奈美さんは、どんなつもりなんか、わたしや隆子をバカにしているじゃないか。帰らせてもらうよ。この縁談は破談だけではすまないよ。慰謝料をもらうから、そのつもりでいてもらいたいね。彦太郎さんも罪な人だ、こんな縁談を勧めたのは何故なんだよ」
可知の怒りは収まらない。その様相は鬼婆のようになっていた。
「落ち着いてくれよ。俺も話を聞いて吃驚したのだ。でも、奈美が結婚式はやるといって聞かないものだから、春彦は必ず帰ってくるというものだから、ギリギリまで待っていたのだが、とうとう帰ってこなんだ」
彦太郎は弁解に困り果てている。そのとき、花嫁衣裳に着替えた隆子の手を引いて奈美が現われた。
「隆子さんが、春彦は居なくても結婚式は挙げてもらうと言いなさるから、早速、挙式させていただきます。どうぞお席にお着きください。神主さんも控えていらっしゃいます。また、挙式の後、この場で披露宴となりますが、その際、彦太郎さんとわたしの再婚の披露もあわせてやらせてもらいますので、よろしゅうお願いします」
奈美は言い終わると深々と頭を下げた。出席者の間に動揺があったが、そのざわめきも収まって、奈美の願いを受け容れることで落着する。
隆子が可知に置手紙をして家出したのはそれからまもなくである。
「春彦さんを捜しに行きます。落ち着けば連絡します。 隆子」
これを見た可知は、声が出なくなったまま座り込む。手紙を持つ手が震えていた。その気持が動転している証拠である。
「結婚式など挙げるからこんなことになったのだ。もう春彦の嫁だから、おらが心配する必要はないのだが、このまま捨てても置けん。奈美に知らせねばなるまい。隆子はあの日から奈美の家に住むべきだったのだ。春彦が戻ってくるまでは預かってくれというから連れ戻ってきたのだが、こんなことになるのだったら奈美の家に置いておけばよかったのじゃ」
可知は少しずつ冷静さを取り戻しているが、不安が顔を覗かせている。隆子が無事に春彦に会えるだろうかと心配になっているのだ。隆子のことはその日のうちに奈美に伝えた可知に、思わない返事が返ってきた。