色即是空
「武蔵のことは心配しなくていいよ、それより自分のことを心配しなさい。春彦との縁談が控えているでしょう。これまで何もあなたに連絡しなかったのは、こちらにちょっとしたごたごたがあって、それが片付いてからと思っていたからだよ。春彦が帰ってくれば話をつけよう。あれの気持を聞いてからでないと決められないからのう」
奈美は、隆子が訪ねてきたことで、彼女の気持は前向きだと推察していたのだろう、春彦が承諾すれば婚約は成立すると踏んでいたようである。
武蔵とともに春彦が帰ってきたのは日暮れ少し前だった。奈美が隆子の着ていることを紙に書いて知らせたのであろうか、春彦は隆子の居ることに驚きもしなかった。
着替えを済ませて部屋に来た春彦は、座卓の正面に座っている隆子に軽く会釈して、向かい合って座る。奈美は座卓の横面に二人を見渡すように座っていて、その様子を窺がえる。
「可知さんがこちらの返事を待ってられるようだ。隆子さんはそれで来られた。わたしは賛成だが、春彦はどう思っているのかのう。あれからだいぶん日が経っているのでほっておくわけにはいかん。こちらの都合で伸びていたのだが、こういうことは早く返事せねば失礼やし、隆子さんが来られたことやから、今日はいい返事を持って帰ってもらわねば済まんでしょう」
奈美は一方的に決め付けるように話している。これが奈美の悪い癖なのだと思ったが、彼女のこれまでの玄との暮らしの中で、身についてしまったものだろうと想像できた。玄は奈美に引っ張ってもらわないと前へ進まない人間だったのである。
春彦を見詰めている隆子の目はすでに恋する女のそれである。
「春彦さんさえよければわたし・・・・」
隆子はそこで言葉を止めた。春彦の反応を見定めようとしている。奈美が春彦の顔を見る。
「僕にも異存はないが、この家に居られるかどうかわからないから、それがはっきりするまで返事は待ってくれないか」
「えつ」
隆子が小さく驚きの声を発した。
「春彦、何を言うてるのや、あんたはこの家の息子やないか」
奈美が慌てる。春彦はだまっていた。
「彦太郎さんと雄介のことはどうなるのや、この家に来るのじゃないか」
隆子が怪訝な顔で二人を見る。奈美がそれに気付いて、
「二人は結婚するつもりでいるようだから、彦太郎のことははっきりしておこう。」
こう切り出した奈美は、彦太郎が奈美の婿になること、次男の雄介を養子に入れることなどを説明しだした。その話の最中、春彦は一言も口を挟まないで聞いているだけである。隆子はその様子から春彦の不満を感じ取っていた。
隆子の驚きは尋常でない。そんなことがあっていいのかというように、奈美を眺め、春彦に同情を寄せている様子がありありとわかった。
「お話はよくわかりました。母にこのことを伝えます。母が納得すれば、わたしは春彦さんと結婚します。春彦さんがこの家に残られるかどうかは関係ありません。二人の気持が合えば愛が生まれるでしょう。わたしはそれを大切にしたいと思っているのです」
隆子は、春彦の気持を引き出すように言った。奈美は隆子が気に入っているようだった。
「送ろうか」
春彦が隆子を促がして立ち上がる。隆子はそれに釣られように動く。庭にでると、武蔵が春彦に寄って来た。乗用車の後部座席に武蔵を載せると、助手席に隆子が乗り、春彦がハンドルを握った。車を走らせながら、
「このまま二人で遠くへ行きたいなあ」
春彦が横に座っている隆子に話しかけるともなく言う。隆子はにっこり笑う。そのまま沈黙が続いて、車は山間部から下の村落に緩やかに走り降りる。
「僕は両親が同時に死んで、この家にもらわれてきたのだそうだ。そのときはまだ二歳だったから何もわかっていないが、奈美さんは、わたしを生んだ母の妹だという。玄さんと奈美さんには子がなかったから、僕を養子にしたそうだ。僕はそれを知らないで育ったのだが、ある時からそれがわかって、僕は谷底に突き落とされたような衝撃を受けた。それ以来、僕は田畑の仕事をすることで自分を誤魔化して生きてきた。そこに、今度の彦太郎さんのことが降って湧いたように起きたので、正直言って、戸惑っているのだ。だから隆子さんにもはっきりと返事できないで迷っていたのだが、今日、隆子さんの決心を聞くことが出来て、僕の心は決まった。結婚しよう」
春彦は、心の堰が切れたように、自分の思いを告げる。隆子が頭を深く下げて頷いた。
「わたしは、六歳のときに父が亡くなって、母親が一人で育ててくれたのよ。母はわたしを大学に通わせたいと思っているらしいけれど、これ以上迷惑は掛けたくないので働き口を探していたら、彦太郎さんが、春彦さんとの結婚話を持ってこられたの。それでこの話に乗ってみようと思ったというわけ。不謹慎でしょう、就職口の一つにしようなんて、ごめんなさい。でも、いまは、すっかり春彦さんが好きになった。隆子って、呼んでくれていいのよ」
隆子は、運転席の春彦に身を寄せるようにして話していた。春彦はまっすぐ前を見ながら運転しているが、心は隆子に向いているようだった。
春彦の行動が積極的になったのはそれから数日後である。その生き生きとした姿を奈美は、春彦と隆子の間に何かあったと窺がうように、春彦の動静を眺めるようになった。 春彦もそれに気付いていたがそ知らぬ顔でいつものように働いている。稲の刈り入れも終わり、ほっと一息ついて、あれこれと片付けごとをしている春彦に、奈美が声を掛けて、
「隆子さんとの結婚はいつするつもりだ。先方にも予定があるだろうから早く決めねばと思うのだが、春彦の決心はついたのか」
と、せかせるように促がした。そのとき春彦は庭仕事をしていたので、聞き流している。それが気に入らないかのように奈美は、座っていた縁側から立ち上がって、春彦の傍にやってくる。 春彦はそれでも手を止めないで刈り取った稲を、少しずつ束ねていた。
「わたしの言うことが聞こえないのか、返事をしろよ」
奈美はいらだっているように声を荒げる。
「よう聞こえている。いまは仕事しているから後にしてくれよ、この仕事だけじゃなくて、ほかにも沢山の仕事が残っている。 秋は日が早く暮れるから急いでいるのだ。母さんは奥に入って休んでいてくれたらいい。 僕が全部やるから」
春彦は振り向いて奈美を見ながら答えているが、手は止めていない。 奈美はじれったそうな顔で春彦を見ていた。
この夜、奈美は春彦を前にして、
「彦太郎を婿に迎えてから春彦の結婚式を挙げようと思う。 両親が揃っているほうが格好付くだろう、母親のわたしだけではさびしい結婚式になってしまうからのう。それに彦太郎とわたしの結婚を披露するいい機会にもなるから一石二鳥だ。そのためには急がねばならん。彦太郎をいつまでも待たせておくわけにもいかんでのう」
奈美は一方的に告げるように話している。春彦は反応しないで聞いているだけだった。その態度が奈美をいらつかせるようである。
「これで決めるから、そのつもりでいてくれよ。彦太郎を呼んで日取りを相談するから春彦も同席してもらいたい」
「わかったよ、母さん。思うようにすればいいよ」