色即是空
「俺の思うようにさせろ、お前たち夫婦には決して悪いことではない。俺はただ、連れ子で再婚することにしただけだ。奈美の戸籍に入るのだから、それぐらいのことをしてもらわねば俺の立場がない。奈美に惚れて盲目になっているわけじゃないぞ。雄介に跡取りになってもらえば俺の血が続くことになる。春彦さんには何がしかの財産を譲って分家してもらうつもりだ、奈美の実子じゃないから、美奈も反対せんじゃろう。明日は、奈美からいい返事をとってくる、安心しておれ」
彦太郎は、自分ひとりで喋って、結論を押し付けている。佐助は聞き手に回っているだけで、賛成も反対もしない。
「料理を運ぶから手伝ってよ」
土間の奥から良子の甲高い声が飛んで来る。佐助が立ち上がって奥へ行こうとすると、
「俺が行く、俺の注文した料理だ。佐助はどっしり構えておればいいのだ。嫁に呼びつけられて動くようじゃ末が案じられるぞ。仲の良いのにも限度がある。子供にも馬鹿にされるぞ」
彦太郎は、佐助を制して、自分から足を運ぶ。彦太郎の言葉は良子にも聞こえるほどの大きな声であった。
家に戻った春彦は、奈美が顔を出したけれども、うつむいたままで一言も言わずに自分の部屋に閉じ篭ってしまった。驚いたのは奈美である。
「春彦、彦太郎さんとこで何があったのだ。戸を開けろ、入るぞ」
奈美が戸を開けると、春彦が両膝を両腕で抱え込むようにしてうずくまっている。その体がわずかに震えているのだ。奈美はただ事ではないと思って、春彦の肩に手を掛けようとすると、左腕を起こして振り払った。
「春彦、どうした」
奈美が再び問いかけると、
「雄介が養子になるって本当か、僕はどうなるのだ」
春彦の目には涙がにじんでいた。
「彦太郎はそんなこと、じかにお前にいったのか。あのバカ、わたしからお前の了解を先にとるつもりじゃったんだよ。お前がビックリしたのも当然だ。ものには順序があるからのう。晩飯を食いながら話し合おう」
奈美はそう言い残して、晩飯の用意に立った。春彦は終始無言である。いつもなら晩飯の準備は春彦がするのだが、この日は、立ち上がろうともしなかった。彼の心は打ち砕かれていたのだ。
「晩飯にせんか。いつまでも塞いでいては話も出来んじゃないか、飯を食えば気も楽になるぞ。話はそれからだ」
奈美の大きな声がする。晩飯の用意を済ませたのだろう、大声で春彦を呼んでいた。
がらんとした大きな家に二人が住んでいるだけなので、秋の深まろうとするこの季節ではそれでなくても肌寒いのだが、この日はとりわけ寒く感じられた。人に活気があれば家も温かいが、春彦のように落ち込むと寒さが襲ってくる。
奈美の元気がそれを打ち破って温かい空気を送り出しているのでなければ、陰気な晩飯になってしまう。落ち込んでしまった春彦を立て直してやらねばならないという気持が奈美の顔や動作に現われている。
「彦太郎のおもうようにはさせんぞ。春彦はわたしが守る。土地や屋敷の権利はわたしが握っているのだ。玄から譲り受けたものをむざむざと彦太郎にくれてやるつもりはない。雄介を養子にしてくれと彦太郎が頼んだからしぶしぶ承知はしたが、彦太郎の連れ子というだけのことじゃ。わたしが彦太郎より先に死ぬことはないのだから、安心して居ればいい。この家の跡取りは春彦、お前なのじゃ」
奈美は春彦に自分の気持を打ち明けて、少しでも春彦を元気にさせようとしているが、春彦は納得できないようだった。
「今夜の飯は欲しくない。母さん一人で食べてくれよ、寒いから早く寝る、悪いけど」
「馬鹿いうな、食べれば元気になる。そんな気の弱いことでどうする」
奈美に強く言われて、春彦は思い直したように箸を取る。その姿には奈美に対する遠慮が影のように付き添っていた。春彦は自分が養子だということを負い目のように背負っているようだった。
奈美と春彦のなんとなく気まずい日が続いている。表面的には穏やかなのだが、春彦の口数がすくなくなって、家の空気がいっそう冷たく感じられる。晩秋は野山を色濃く茶色に染め、落葉も増えている。柿の木もしなうばかりに実をつけているし、栗の実が山道にも沢山転がり落ちていた。
「今日は、稲刈りを済ませような、春彦もがんばってくれ」
棚田の刈り入れには機械が思うようには使えないので、手仕事になっている。これまでは春彦が率先して引き受けていたが、今回は奈美が春彦を引っ張るように働いている。奈美は彦太郎の件で、春彦にひけ目を感じているのだ。刈り入れの仕事も、春彦をかばうように、自分が先に立ってやっている。
「僕がやるから、母さんは家に帰ってくれていいよ」
春彦は、奈美の気遣いが心の重荷になっている。一人で居たいのがいまの春彦の偽りのない心境だ。秋の夕暮れは早く来るから、二人で仕事したほうがいいのだが、春彦は一人でいたかったのだ。
奈美もこのまま一緒に働くことは無理だと思ったのか、しばらくすると、
「家の仕事をしに帰らせてもらう。すまんが、残りの刈り取りは一人でやってくれ、終わりの頃を見計らって戻ってくる。竿に干すのを手伝うでな」
と、言い残して帰っていった。その後姿を春彦は目で追っていた。なんともいえない複雑な気持なのだ。
―どうして、僕に先に話してくれなかったのか。相談してくれていれば、気持にわだかまりは生まれなかっただろう。いまは、素直な気持で話を聞くことも出来ない。彦太郎と母だけで勝手に決めてしまうのは酷い。僕自身の立場がまったくないに等しい。母の本心がわからなくなった―
春彦は一人になると、この思いが身を包むように圧し掛かるのを覚えた。それから解放されようと、春彦は懸命に体を動かして自分を誤魔化している。そのうちに棚田には夕暮が近付いて来た。奈美は戻ってくるといっていたが、ついに現われなかったのである。
春彦と隆子の縁談ばなしは頓挫している。彦太郎の事件があって以来、それどころの話ではない。奈美と春彦の間には冷たい水が流れているようで、日々の生活がぎくしゃくしたままである。そんなときに、隆子が訪ねてきた。
「あれからお話がないので心配になって訪ねてきました。彦太郎おじさんにお聞きしたら、直接、おばさんに尋ねてくれといわれたのです」
奈美は隆子の突然の訪問に驚いた。玄関に立った隆子を穴の開くほどに見詰めている。そのうちに、春彦と和解できる絶好のチャンスだと気付いた。
「春彦は田圃に出ているが、犬に呼びにやらすから、しばらくまっていてくれ、その間、上に上がって話をしよう。武蔵、こっちへおいで」
奈美は手招きして庭に居た大きな白い犬を呼び、首輪に小さな紙を結びつけ、「武蔵、春彦を呼んで来い」と、背を軽く叩いた。
武蔵は、心得たとばかりに走り出す。その様子を隆子が驚いてみていた。
「犬を放し飼いしていいの?」
「家と田圃のあたりだけだから大丈夫。人は少ないし、居ても知り合いばかりだから。武蔵は遠くへは絶対行かない」
奈美は自信ありげに喋っている。犬の放し飼いは禁止されているのにと、隆子はあきれたが、奈美は平然としていた。