色即是空
「彦太郎さんが乗り気なら、母さんは再婚するでしょう。僕の結婚よりも先に、母さんが再婚して欲しい。彦太郎さんにこの家に婿入りしてもらえばいい。彦太郎さんには息子二人と孫三人が居るから、財産は息子たちに譲って、身一つで来てもらえば、悶着は起きないし、母さんも気が楽だろう。玄父さんと彦太郎さんとが入れ替わっただけだと思えばいい。しかも彦太郎さんは母さんの昔の恋人なのだ。いや、青春がよみがえって、再び恋人に戻ったのだよ。愛を再び確かめ合うときが来たのだ。ためらうことなんか何もないよ」
春彦は一気にたたみかけるように言った。奈美に決心させるためには、奈美の心を引き立ててやるパワーが必要だと思って、強く迫ったのである。このことがあってから、奈美の態度がだいたんになって、彦太郎を家に呼び入れる日が続いた。こんなのをやけぼっくいに火がついたと言うのだろうと春彦は思った。玄に貞淑だった奈美の心の中で何かが崩れ落ちたように見える。
―僕の言ったことがきっかけになったのだとすれば、罪なことをしてしまった。母が長い間心の奥にしまっていた思いを引き出してしまったのだから。封印破りをそそのかしたのは僕だ。この結果には僕が責任を取らねばならない―
春彦は、女が奔放になったとき、周りの事情も何もかまわないで、自分の思い一つで行動する恐ろしさを目にした。これまでの奈美の落ち着いた重々しい振る舞いとは打って変わって、いそいそとしている姿を見ていると、長年の重圧からの解放感が湧き出ているようである。
それに引き換えて、彦太郎のほうは、ぐずぐずしていてはっきりしない。春彦が投げかけた奈美との結婚話にも、
「しばらく待ってくれ、そのうちに返事するから」
と、言ったままで、ずるずると奈美の誘いに乗っている。それはまるで据え膳を食っているようなものではないか。
春彦は、彦太郎を疑い出していたが、奈美の一途な気持を察すると、むげに彼を排除できないし、自分から持ち込んだ結婚話だから成功させないと、自分の立場もないと思い、彦太郎と掛け合う。
「うちに来るのは正式に結婚してからにしてもらいたい。母さんにも、それまでは彦太郎さんを家に呼ばないように言ってある。会いたければ婚姻届を出してからにしてください。それまでは家に入れませんから」
春彦の剣幕に彦太郎は、
「うん、うん」
と言うだけで、たじろいだ様子のまま聞き手にまわっている。二人が話しているのは彦太郎家の表庭に面した縁側である。このとき彦太郎の長男夫婦が畑から帰って来た。
「親父が面倒をかけているようですね。俺もこいつも賛成だからと親父に言っているけど、子供を捨てる親にはなりたくないとか言って、にえきらんのよ。そのくせ、奈美さんにほれているから処置なしだなあ。子供のわれわれから縁切りしてやってもいいのだけれど、それではかわいそうだから、親父から再婚すると言ってもらえば、すべて済むことなのだ。春彦さんには世話掛けてすまんが、按配してやってくれよ」
長男の佐助は、すべての事情を知っているような口ぶりで、すらすらと喋った。嫁の良子も傍らで頷いて聞いている。
「彦太郎さんが、食い扶持だけを残して、それ以外の財産は、農地も屋敷も含めて二人の息子さんにゆずる決心をしてもらうと、すぐにでも椎名の家に移ってもらえるのです」
春彦はこの際とばかり強調している。彦太郎は財産を子供たちに譲ることを躊躇しているのだろうか、それならば、この話は壊れるかもしれないと春彦は思った。
奈美を彦太郎が後妻に迎えて自分の家に住まわせることを考えているとしたら、佐助も良子も反対することは目に見えている。次男の雄介も承知しないだろう。
「お父さんは奈美さんと早く結婚したほうがいいよ。いろいろ噂が立つ前に決めてもらわないと佐助もわたしも恥をかくことになるのだからね」
良子が怒るような口調で喋りだした。孫の弥一が傍に立って彦太郎を睨んでいる。
「弥一はね、『お前の爺は奈美に惚れとるのだろう。爺が夜這いしとるのを俺のおっかあが見たといっていたぞ』と、友達から、大勢の中でからかわれたのだよ。そのとき家に帰って来るなり、『おっかあ、爺のことは本当か』と尋ねたのだ、悔し涙を流してね」
良子は、小学校四年生の弥一がかわいそうだという思いにかられたように、不満を一気に吐き出した。
「良子、そんなことがあったのか。親父はどう思っていようと、もう出て行ってもらうしかないようだ。春彦さん、引き取ってくれるか」
佐助は思いつめたように言った。
「込み入った話になりそうだ、座敷へ上がらせてもらっていいかな」
春彦は、この段階で話を決めてしまうべきだとおもって、佐助に相談を促がし、座敷に移動した。作業着を脱ぎ着替えを済ました佐助と良子が座敷に現われると、大きなテーブルを囲んで話が再開される。
「彦太郎さんも逃げないで結論を出してください。あなた自身のことだし、このままずるずる引き延ばされると、母の奈美が迷惑するのですから、あいまいな態度はやめてください。今日話が決まらなければ、僕は手を引きます」
春彦は彦太郎の心を揺さぶるように言う。すると、それまで黙っていた彦太郎は、
「俺は椎名の籍に入り、雄介夫婦と子供を養子にするつもりでいる。奈美にそれを承諾させるのに時間がかかっている。こちらの財産はすべて佐助に譲る。このことは奈美から春彦さんに言ってもらう段取りだった。奈美はそれをためらっているので返事が出来なかったのじゃ」
彦太郎の言葉に佐助、良子、春彦が唖然として、顔を見合わせていた。佐助と良子は上気したように顔に血の気が昇っていたが、春彦は顔面蒼白に近く血が引いていた。
「親父は本気でそんなことを考えていたのか。春彦さんの立場はどうなるのだ。春彦さんの意見を何故先に聞かなかったのだ」
佐助は, 由々しいことだとばかり詰問している。良子は黙って様子を見守しかないようだった。
「これは、俺と奈美が決着をつける問題だ。春彦さんはこれまでと何も変わらない。俺たちに二人の息子がいるということだよ。雄介と春彦さんが仲良くやってもらえばそれでいいじゃないか。佐助は口を挟まないでくれ」
彦太郎は、自分の言っていることが、周りの人間にどれだけ深刻なことであるかをまったく気に留めていないようだった。
「僕は帰らせてもらいます」
春彦はそれだけ言って席を立った。佐助も良子も引き止められる雰囲気ではない。彦太郎は春彦が去る後ろ姿に目をやっていたが、彼も何も言葉を掛けなかった。三人だけになった座敷では沈黙の思い空気が降りている。
「夕食にしましょうか」
良子がやっと、声を出してその場の空気を和らげようとした。
「裏の池から鯉をすくってきて、あらいにしてくれ。鰻は籠から出して蒲焼がいい。速いとこ頼む」
彦太郎は良子を促がした。その平然とした態度に、佐助はあきれている。良子はそそくさと土間に出て行った。