色即是空
椎名家は養蚕業を営んでいて裕福な生活をしていたから、椎名も恵まれていた。椎名の名は春彦で、春ちゃんとか春坊と呼ばれて、家に雇われていた四、五人の手伝い人にもかわいがられる。養母の奈美は実子同然に春彦を愛し、春彦もそれを疑わずに育った。
春彦の幼い頃は事業も順調で、春彦は養蚕の手伝いをすることに歓びを感じていた。
「お蚕が育つように春彦も育つのだ」
これが玄の口癖だった。奈美もそれを当然と受け止め、二人して春彦に仕事を教える。小学校に上がった頃は、学校から帰るとランドセルをほり投げて、春彦は養蚕室に飛び込むように手伝いに走った。
「お蚕が動いている」
春彦はその動作をじっと観察するのが好きたった。桑の葉を音立てて食べている蚕の姿に圧倒されているように目がお蚕に食い込んでいる。それは不思議な発見であったのだ。
中学生になった頃は、玄の仕事の下働きをし、仕事の手順を教えられた。玄は本気で春彦を仕込みにかかったのである。春彦もそれを当然と受け止めていた。
高校生になると春彦は、もう一人前の養蚕農夫と誰でもが認めるような仕事ぶりであった。玄や奈美からそれをほめられると春彦は嬉しかったが、このまま農夫になってしまいたくは無かった。大学へ進学したいという希望が頭をもたげていたのである。
春彦が玄にその思いを打ち明けると、玄は農業大学への進学ならいいといった。春彦はそれには不満で、文学を専攻するつもりだと反発し、いさかいが起きる。
「お前は、この養蚕業を引き継いで俺たちを安心させてもらいたいのだ。先祖からの仕事をお前の代で捨ててしまう気なのか、生半可な気持ではこの仕事は続けられんことを、お前は十分知っているはずじゃないか。これまで積み重ねた経験を活かすことを考えないのか」
玄がそのとき言った言葉は、当たり前といえば当たり前だった。だが、春彦は不満だった。自分を理解してもらえないと思ったのだった。それ以来、春彦は玄や奈美とは進学のことを話さないままで、高三の秋になった。この頃、養蚕業は急速に衰微し廃業する家が多くなる。椎名家でも将来の見通しが怪しくなって、玄は自信をなくしていた。
翌年の春、春彦は東京の大学に進学する。それは文学部ではなくて農学部だった。これには玄も美奈も驚いたが、春彦自身はさばさばしていた。大学進学を控えた頃に、春彦は自分が玄・奈美夫妻の養子であることを知ったのである。
春彦が大学生活を続けている頃に、椎名家には異変が起きる。玄が脳梗塞で倒れ半身不随に近い状態になった。その知らせが届いたのは春彦が農業実習をしているときである。ポケットのケイタイが鳴って奈美の息せき切った声が飛び込んできた。
「お父さんが倒れた。すぐ帰って来て」
実に短い言葉であったが、急を要する事態だと春彦は、農場から直接に帰郷する。山間地にある農家は散在していて隣家といってもかなりの距離がある。椎名はすでに五時間近く車を走らせていたので、山間部に差し掛かった時はさすがに疲れていた。だが、初秋の夕暮れにそよぐ稲の穂波が目に入ると、ほっとした表情で元気を取り戻していた。
春彦が家に着くと、奈美が駆け寄って椎名にすがりついた。医師と看護師の女性が往診にきているところだった。春彦が玄の傍によると、玄は口を開いて何かを言おうとしていたが、言葉にはならない。医師は入院を勧めているのだが、玄が首を横に振っている。
それから二日経った日の朝、玄の容態が怪しくなったので、救急車で町の病院に運んだ。それから一週間、奈美と春彦は病床に付き切りで玄を見守り続けたが、日に日に悪くなってついに死を迎えた。
この後、春彦は大学を中退し、奈美をたすけて農業を引き継いだが、養蚕は廃業し、高地野菜と果樹の栽培に切り替えた。
「春彦は農業のことがよくわかるようになったね。これからは若い者でないと時代に付いていけんようになった。わたし等年寄りが教えることは無くなった」
奈美が頼もしそうに春彦を見る。その姿には夫・玄に先立たれたためか、急に老いが忍び寄ったような寂しさがあった。
春彦は、この母のために、何としても農業を守り、生きがいを与えたかった。自分を育ててくれた母に報いるのはそれしかないと思う。また、それが亡父・玄に対する恩返しだとも考えていた。
―僕の命を救ってくれた養父母に恩返しをしないと、僕は将来、後悔するだろう。そういう人生を送りたくない。母の一生を見届けてから、僕は僕の人生について考えよう。それが農業であるか他の職業であるかは、運命に任すしかない。今は、天から与えられたことを真面目にやることで、僕の命は生かされるのだと思う。僕が自分は養子であることを知り、そのいきさつもわかった現在では、養父母の人生が僕の人生だと思えばいい―
春彦は自分の生い立ちを直視し、生きるべき道を養父母への恩返しに求め、 それが単なる感傷ではなく生命観にまで昇華されようとしている。
玄の死後、春彦が続けてきた農業は曲がりなりにも成功し、収穫の出荷額も増えて、奈美を安心させている。生活に落ち着きが出てくると、奈美の思案は、「孫が欲しい」に移って来た。
「春彦は嫁を迎える気は無いか」
ある年の玄の祥月命日に奈美が、仏壇の前で、春彦に話を持ちかける。すでに心当たりがあるらしくて、その女の名前も言った。それが隆子であった。春彦はまったく知らない女性である。
「この春に高校を出たそうだ。母と二人だから遠くへは嫁がせたくないと母親の可知さんが言っている。春彦とは年が開きすぎているよだが、嫁は若い方がいい働き手になるだろう。考えてみてくれないか」
奈美が切り出した話に春彦は驚いた。家の仕事のことばかりに熱中して、妻を娶ることなど考えても居なかったので、返事など出来るはずは無かった。
「春彦は充分働いてくれた。それをよいことに、わたしはあんたに頼りきりで、先のことを考えてなかったが、あんたの嫁取りをせねばと友達に言われて、気が付いたのじゃ。それで頼んでおったらこの人を紹介してくれたというわけよ。急なことだから吃驚したじゃろうが、悪く思わんでくれな」
奈美は春彦の驚きを抑えようとしていた。玄が春彦の背を押してくれればありがたいと奈美は、仏壇に手を合わせて、頼んでいる。その姿を見ながら春彦は、奈美が年を取ったと感じていた。
―女は不思議な生き物だ。娘、嫁、姑、姥と変わって行くにつれて、人間が違ったようになる。男の一本調子なのと比べると、不思議な生き方をする。恐ろしい生命力を授けられているようだ―
春彦は、奈美が姑にならないままに姥になることは避けねばならないと思いながら、奈美が運んでいる縁談の話に耳を傾けねばならないだろうと当惑して、自分の部屋の畳の上で大の字に寝転がって天井を見ていた。
隆子に会ってみようか、会わないで置こうか。奈美の希望をかなえようか、辞退しようか。春彦の思案はまとまらないままに、ぐるぐる回っている。春彦は、此処でこのまま農夫をやって一生をうずめるつもりは無かったが、それを奈美に告白するのは、せっかく自分に期待してくれている奈美を裏切ることになると躊躇していた。