色即是空
こう言っては非難する相手を煙に巻く。彼の道徳感覚は、すべての人間は自由でなければならないという発想から生まれているらしい。放埓な奴と人から言われていてもいっこうに気にしないのは、彼に引き寄せられる女が次々にあらわれるからである。そのことを、椎名は、
「俺が女を納得させてやるからだ。赤裸々に生きることを知って、女は世間という拘束から自分を開放する。俺はセックスを楽しむような幼稚なことをしないで、人間の実存に迫る精神的ゲームを楽しみあったのだが、女たちがそれを知るのには時間がかかった。精神的な世界へ連れ込むためにはすべての虚飾を取り去ってやらねばならないから、生命の素朴さを学ばせねばならなかった。セックスは人間という種を保存する手段に過ぎない。生命はそれを超えた自己目的を持っている。生命の実相に迫るのが俺の生き方だ」
椎名が話しかけている相手は哲である。場所は椎名のオフイスで女の秘書が一人残っていた。時刻は夕暮れ時で、これからフリー・タイムが始まろうとしている。役人であれば「五時から役所」の時間帯が幕を開けようとしているのだ。
椎名は彩子と大人の遊びをしているということから真理子と彩子の友人関係は断絶したが、その事実を突き止めたものは居ない。椎名と彩子が親しくしているということは外見的に明示されていても男女の関係までは明らかでない。そのことは周りのものの推測にしか過ぎない。
哲は椎名の言葉を聴きながら、彩子と椎名の関係は、案外と清廉潔白なのではなかったかと思うようになっている。椎名の他の女との遊びも性的関係が自己目的化したものではなくて、はずみのようなものではなかったのかと思い直していた。
哲には、父としての椎名を風評とは別の堅実な精神の持ち主として見直したい気持が湧いている。
「父さんは精神的に孤独なのだよ。菜穂子さんに受け容れてもらえなかったことが、僕の母さんである隆子に走るきっかけになったのだと思う。父さんはさびしかったのだ。母が父さんを熱愛していたから、その愛に父さんは包み込まれたのだと思う。父さんの心の空白を母が埋めてくれたのでしょう。しかし、父さんは女遊びを性癖のように繰り返したので、母さんは嫌悪して逃避した。そうじゃないですか」
哲は父・椎名に理解を示しながら、女にだらしの無い性格を非難している。
「俺は二重性格なのかもしれんよ。善と悪が混ざり合っているのだろう。理性的な自分と衝動的な自分がともに住んでいて、自己矛盾を起こしていることに気付くことがあるよ。それが人間なのじゃないかな。人間はね、神と獣の間を行ったり来たりしながら生きているのだ」
椎名は、人間の自己矛盾を受け容れることが素直な生き方だと思っているらしい。
―菜穂子の意地に負けたように真理子を手放したが、実際は菜穂子の好意を嬉しく思っていた。想定外の妊娠で隆子も慌てたのだが、僕は降ろすことには反対だった―
椎名は当時のことを思い出しながら、菜穂子に真理子を引き渡したことはやむを得ないことだったと自分を改めて納得させている。
―どうして自分には女が付きまとうのだろう。女たらしではないし、女漁りをするわけでもないのに、隆子のように離れない女が居る。その情におぼれる自分は、自覚している自分とは違うように思う。それなのにいつの間にか流されている―
椎名は自分の弱さから起きた事件の数々を悔悟している。哲と別れて家に着いた椎名は、誰も居ない部屋に入り込んだ夏日の熱気が蒸しているのに不快を感じ、すぐに窓を開ける。このところ三十度を超える日が続いているので、日中締め切ったままの部屋は蒸し風呂のようになっている。
椎名がこの家を借りたのは、閑静で日曜菜園が出来るほどの土地があったからである。彼はあくせくと稼ぐのに飽いて、のんびりと暮らしたくなっていた。彼はこの時勢に背を向けて生きようと決めている。文筆家としても流行に乗らないし、テレビに出演して有名になることを求めたりしない。都会の片隅で自分の思うように気侭に生きる。それが椎名の本当の姿なのであるが、彼は都会を泳ぐことにもたけているので、他人からは誤解される。
椎名は一人で夕食をとりながら、一日の出来事を振り返っている。カルチャー教室で、真剣に立ち向かってくる千夏のような少女、時間をもてあまし気味の遥や鈴のような中年の女、作家志望らしい大学生の男、定年後の生きがいを求めているような老紳士、家庭からはみ出したような姑のような老婆など、教室の受講生は雑多である。椎名にとってはその一人ひとりに満足を与えることの難しさが仕事の仕甲斐でもあり悩みでもあった。
蒸し暑い夜に、窓を開けて網戸から流れてくるわずかばかりの風を肌に感じながら、椎名は予約原稿に取り組むべく、机に向かう。蝉は鳴き止んで入れ替わるように、蟋蟀の声がする。季節がいま此処で移ろうとしているのだった。
―千夏は来るだろうか、昼間に約束したことを彼女は覚えているだろうか。僕の気を引くために口からでまかせに言ったのではないか―
椎名は、机に向かいながら、千夏のことを思い出していた。好感のもてる少女だし、利口そうだから小説の手ほどきをしても、エッセイを書かせても見込みがありそうだ。本気で課外授業をしてみようか、椎名は夜更けの独り居の寂しさに誘われたのか少女の面影を追っていた。
網戸にした窓の外から入ってきていた熱気は収まって涼しい風に変わっている。椎名はその風に誘われたようにわれに返ると、妄想を払いのけるようにパソコンのキーを打つ。明日までに仕上げないといけない原稿である。
この家は旧村落のはずれにある農家で持ち主が離村してから空き家だったのを借り受けたのである。持ち主だった村田さんは近くの長男の家に同居していた。長男の一郎さんは農協の職員で椎名のことをよく知っていた。
「椎名さんの作品はよく読ませてもらっていますよ。農村を主題にしたエッセイなどもわれわれの仲間では好評です。あの家を使って文学サークルを開いていただくと参加者は沢山集まりますよ」
一郎は椎名を歓迎した。その頃、椎名は隆子と別れていたので、都心で一人暮らしのマンション生活をするほうが仕事にも生活にも便利だったのだが、それまでの忙しい生活、ある程度ふしだらな都会暮らしに自己嫌悪を感じていたのか、年齢を重ねて静かな生活にひかれるようになったのか、都心を離れたくなっていた。そこで郊外といっても都心にも出やすいこの地を選んだのである。一郎が誘ってくれたのは本当に嬉しかった。それまで付き合っていた都会の仲間が一人、二人と離れて行った頃だったから、椎名は弱気になって、自分を世間から隠したいくらいだったのである。そのときに、地図を片手に捜したこの家がなんとなく彼をひきつけた。それもそのはずで、この家は椎名が二歳の頃まで住んでいた家だったのである。椎名にはそのことについて記憶は無い。
この家には椎名の先祖が住んでいたが椎名の父の代になって他人の手にわたった。椎名の両親が不慮の死をとげたとき二歳だった椎名は母の親戚に当たる椎名玄に引き取られて養子縁組してもらった。玄には子がなかったので跡取りとして育てられたのである。