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色即是空

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 哲は丁重に断わっている。其処へ、真理子が、リリー、キティ、チャーを籠にいれ、カーヤを連れてやって来た。
「お願いしたように、猫を預かってくださいね」
 真理子の声が庭から大きく聞こえる。亀吉と弓子は、緊張した空気を急に解きほぐされたように、真理子のほうを見た。
「哲、帰る支度はもうできたの? わたしも一度、東京へ戻るから車に乗せていってね。母さんも一緒よ」
 真理子はその場の事情など何も知らないで、マイペースでしゃべっている。それを見かねたように哲がさえぎった。
「僕に、此処にとどまるように言われていたのです」
「何ですって?」
 真理子が驚いて亀吉と弓子を見る。二人が気まずそうな顔を並べた。
「わたしたちの都合ばかり言わせてもらっとったのですわ。哲さんが余りいい人なので残ってほしいてのう」
 弓子が初老の日焼けした農婦の顔を突き出して訴えるように言った。
「哲さんが東京へ帰る言うので、引き留めていたのですが、こっちの勝手ばかりはいえんですなあ」
 亀吉が、禿げ上がった頭を掻きながら、弓子の後について照れくさそうに言う。真理子にはその場の雰囲気が飲み込めた。
「そう、哲って、そんなに歓迎されているの。哲はすっかり農業のとりこになっているから、東京でも耕作するでしょうし、農繁期にはこちらへお手伝いにきますよ。哲、そうでしょう?」
 真理子は、持ち前の気性丸出しで、決め付けるように言った。それが助け舟のように、哲が真理子の言葉を継いだ。
「僕もそのつもりです。農繁期にはこちらへお手伝いに来させてもらいますよ。まだまだ教えてもらいたいことが山ほどありますからね。呼んでもらったら、いつでも来ますから、そのときはよろしくお願いします」
 哲の言葉に、亀吉と弓子は、嬉しそうな顔で応えた。
「これで一件落着としましょうよ」
 真理子が力強い声で取り仕切った。

 東京に戻った真理子は、哲と別れて、母・菜穂子と自宅に着いた。夏草が茂り放題に茂っているのが留守にしていた時間を語っている。京都に馴染んでしまった真理子には、東京は他人の土地のように感じられた。この家から電車に乗って一時間ほどで通った渋谷のオフイスのことも遠い昔の思い出のようにかすんでいる。
「どうしてか、わたしは二人の自分がいるように思うの。父親を捜し廻った真理子は自意識過剰で他人を信じなかった。自分本位に生きることが自分を活かす道だと思って、シングル・ライフにあこがれた。その道を突っ走って母さんに逆らっていたのよ。それなのに心のどこかで母さんを慕っているもう一人の真理子がいるの。一人で突っ張っていないで母さんのふところに飛び込みなさいって言うのよ。
 わたしはその葛藤のなかで病気になったのね。マヤの事件のときがその真っ最中だった。猫たちはわたしの心の幻影だったのではと思い出すことがあるの。あれからしばらくわたしは猫にとりつかれていた。そのとき、哲と彩子がわたしの傍にいた。わたしは、哲にも彩子にもすがりつく思いで助けをもとめていたのよ。彩子は自意識過剰の真理子の味方だった。わたしは彩子に操られるように生きていた。まるで麻薬患者のようだった。男を漁ることだって本気で考えていたの。その対象が幻覚的に哲だったりした。
 そんな状態のときに、哲は母を慕う真理子を呼び起こしてくれたの。哲とわたしは姉弟だという思いを強くさせてくれたのは哲だった。哲からは母の感触が伝わってきた。それが母さんだったのか隆子さんだったのか、漠然としていた。わたしには二人の母がいるという潜在意識が働いていたのね。母さんが、哲と隆子さんのためにこの家を提供してあげようといってくれたとき、わたしの心のなかにあったわだかまりが氷解したの。何故かは知らないが心が軽くなった。わたしは哲と素直に接することができるようになったの」
 真理子は心に溜まっていた思いを吐き出すように話した。これまでの自分を回想することで、いまの自分を取り戻しているようである。真理子の述懐を聞いている菜穂子にも深い思いが湧いている。
「真理子を育てると決心した頃、わたしは憎悪と嫉妬のかたまりでした。椎名と隆子さんに対する復讐心が真理子を育てる原動力になっていたのですよ。揺篭のなかからあなたはわたしの仕事する姿を見ながら育ったのです。
 わたしには乳は出ないから粉乳や牛乳をあげていたの、その時間が仕事を休むときでした。幼稚園に上がるようになって、お友達ができ、スクール・バスで送り迎えしていただいたので、わたしの余裕時間が増えてほっとしましたよ。小学校に入学してから、真理子はお友達を家によく連れて来ましたよ。明るくて積極的だった。それなのに、中学生になってから、真理子が暗くなっているのに気付いたのです。真理子に尋ねたわよね、『どこか具合が悪いの?』て、そのとき、真理子は黙っていた。その目がわたしを刺すようなのにたじろいだことを覚えています。『シングル・マザーの子』って、噂を広める同級生がいて、思春期の真理子には強い衝撃をあたえたのね。『あんたの親父は誰よ』とからかわれたのでしょう。わたしが真理子を育てることはその時点でおわったのよ。
 それから真理子はわたしから離れた存在になったの。わたしはあえて引き戻そうとはしなかった。そのことをわたしは悩み続けたの。血を分けた娘だったら、何としても引き戻そうとしたはずだと気付いたのよ。わたしは、自分が冷静に振舞ったと自負していたことが誤りだったのではと反省したの。
哲さんとお話したときに、哲さんの隆子さんに寄せる思いがひしひしと伝わってきたのよ。そのとき、真理子も同じだろうと感じたの。それからわたしの思いは隆子さんを幸福にしてあげたいということに変わったのよ。真理子がわたしのことを考えてくれるようになったのとほぼ同じ頃だったの」
 菜穂子もまた過去を振り返って感慨に浸っているようだった。これまでの人生の歩みを述懐するように語っている菜穂子には、人を愛することの真の意味がようやく解ってきたといった想いが漂っていた。目の前にいる真理子にその愛の眼差しが注がれている。
 ある日、哲が神妙な顔で菜穂子と話していた。
「シングル・マザーって、未婚の母のことでしょう。子は欲しいが夫は要らないという跳んでいる女のことであればポジティブな意味もあるですが、セックス遊びでうっかり子が生まれて、どの男の子かわからない女だとネガティブな意味しかありませんね。おばさんは結婚しておられたからシングル・マザーに該当しないのですが、椎名のことを隠しておられたからシングル・マザーだと思われたのでしょう。真理子さんがそのためにいじめられたと聞きましたよ。シングル・マザーって、悪い道徳的イメージで捉えられていますから肩身は狭いはずなのですが、逆に、積極的にシングル・マザーになる女性の場合は、古い道徳に挑戦しているような姿勢が見られますね。強がりをしているとしか思えませんよ。どちらにしても不自然だと思います。男女は家庭を築くのが自然な姿なのですからね。親の都合で離婚や、片親生活をするのは子供に対する犯罪だと僕は思いますね」
作品名:色即是空 作家名:佐武寛