色即是空
「哲は隆子さんの居所知っているのでしょう。一緒に住みなさいよ。隆子さんの生活費は母が支援するって。哲は自分の将来を築くためにがんばってよ」
哲は返事をしなかったが、頷いていた。
「わたしは母さんと暮らすの。チャンスがあれば結婚するつもりよ。母さんとの同居を条件にね」
「真理子さん、結婚する気持になったのですか?」
哲が驚いたように声をあげる。その顔は信じられないというようだった。
「本当よ、シングルにバイバイするの」
「信じられません。真理子さんは信念を曲げない人だと思っていたのですよ」
「シングルである必要がなくなったのよ。母さんはわたしがシングルであることに賛成じゃないの。結婚して子供を産むことが女の幸せだって。わたしも孫を母さんにみせて上げたくなったのよ」
「シングル・マザーでもいいじゃないですか、子供を産むだけだったら」
「両親が揃っているのが子供には最高なのよ。わたしは母さんしか居なかったからいじめられたし、苦しんだのよ。わたしが父親捜しにどれほど苦労したか、哲は知っているでしょう。哲はそのためにわたしを助けてくれたじゃないの」
「真理子さんのシングル願望は、父親捜しのなかで芽生えた男への不信が原点でしたよね。現在は男への不信が解消したってことですか」
「椎名のことは特殊なケースだと考える余裕ができたのよ。母さんのようにシングルでありたいと思ったけれど、母さんは結婚生活の失敗からシングルになったにすぎないの、結婚しないでシングルを選んだのではない。そのことをわたしは誤解していたのよ」
「彩子さんとは本質的に違うのですね。僕も、真理子さんは結婚して普通の家庭を築いたほうがいいと思いますよ」
哲がすんなりと真理子に同調した。哲が独り暮らしの苦労を体験しているから出た言葉かもしれない。
「明日、母さんが哲に相談したいそうだから京都の家に来てね」
真理子はそういい残して哲と分かれた。
真理子の心に影響力を与えた菜穂子の生き様は、隆子に対する女の意地と夫に対する復讐に燃えて真理子を引き取った頃の凛然とした姿からみると円熟し、夫に対する哀れみと隆子に対する慙愧の念に変わっている。
「真理子を隆子さんから奪ったのは、嫉妬ばかりではなくて、あなたの将来を考えてのことだった。椎名は定職を持っていなかったから、あなたを育てる経済的余裕はなかったのよ。だから、そのときは善意のつもりだった。でも隆子さんには悪いことをしたの」
菜穂子の言葉を真理子は自分の過去を振り返りながら聞いている。
「真理子は自由にのびのびと育つように、わたしは干渉を避けたの。自分で考え自分で行動することを覚えてほしかったから。皮肉なことに、あなたのわたしに対する反抗の原点になったのよ。わたしはあなたの思うようにさせた。自分の生い立ちの秘密を解き明かして、あなたはわたしの許に戻ってきたのよ」
「わたしがわからないのは、母さんが、隆子さんの生活を支えてあげる気持になったのはなぜかということなの」
「真理子を奪ったことへの贖罪ですよ。その気持が湧いて来たのは、わたしが素直な人間になれたってことね」
「素直ってどういうこと?」
「隆子さんの身になって考えることよ。そうすれば我執を捨てられるでしょう」
「母さんはいつからそういう心境になったの?」
「哲さんから隆子さんが鬱を病んでいるときかされてね。独り暮らしがさびしくなって哲さんや真理子の名を呼んで泣かれているというの」
「何処にいらっしゃるの?」
「それはわたしにはわからない、哲さんが言わないから。哲さんのお祖母さんがなくなられる直前に、財産を哲さんと隆子さんに分与する遺言をなさったそうよ。哲さんがその遺言書を持って隆子さんに会われたのですって。わたしがお祖母さん宛にお手紙を出した頃に亡くなられたらしいの」
「哲が、母さんの提案を受け容れて、隆子さんと同居すれば、隆子さんの病状も回復するのじゃないかな」
「わたしはそれを願っているの。椎名の仕打ちにたいするわたしからのお詫びでもあるのよ」
「お詫びだって?」
「椎名はわたしの夫だったのだからね」
「そこまで考えているの?」
「椎名が隆子さんを幸せにしてくれていれば、真理子を奪った罪を帳消ししてもらえたでしょうが、不幸にしたからね」
真理子は、菜穂子の言葉に隆子に対する思いやりを感じた。自分の産みの親にこれほどまで気を配ってくれている菜穂子に感動している。
「フリーターは浮き草なのです。風の吹くままに水面を流れているように根ざすことがないのですよ。僕はそれが気持よかったのです。だけど、畑仕事をしているうちに根が生える楽しみを覚えました。どの野菜も懸命に根を張ろうとするのですよ。青い葉っぱがぱっと開くときには引き込まれますね。土掻きするときの感触はすばらしいですよ。土と野菜が一緒になって生きているという感じですね。野菜畑が僕を変えてくれたのです。大地に根ざしてしっかりと生きて行きたい希望が湧いてきました」
哲は目をかがやかせて目の前の菜穂子に語っている。この数ヶ月の体験が哲に新しい命を吹き込んだのだと菜穂子は思った。
「いい体験だったのね。哲さんがそれほど感動してくれるとは思わなかった。亀吉さんも弓子さんも喜んでらっしゃるでしょう」
菜穂子はそのことが嬉しかったし、哲が此処へ来てから見違えるようにしっかりした青年に変わっていることに感激している。
「真理子に頼んでおいた件だけど、隆子さんと一緒に暮らすこと、賛成してくれるわね、あなたのお母さんなのだからお世話してあげれば、ご病気も早く回復すると思うのよ。今のあなたなら、それができると信じているの。真理子はわたしと暮らすといってくれているのよ。子供が傍にいてくれればそれだけで元気が出るのですからね」
菜穂子は自分自身の年を感じるような口調である。
「おばさんの厚意に感謝します。母はわたしが引き取ります」
哲は短く答えたが、菜穂子にはそれで十分だった。
哲が東京へ帰る日が近づくと、亀吉と弓子は残念そうに引き留める。
「このまま此処にとどまるわけにはいかんかのう。せっかく覚えなさったことを捨ててしまうのはもったいないですけねえ。農業に向いてなさるとわたしは思う。わたしらは年やで、思うようにからだは動かんようになったから、若い人に代わってもらおうと、ゆうべも亀吉さんと話しとったのよ。哲さんが引き受けてくださるなら、農地を提供しようと相談が決まった。ぜひ引き受けてもらえんかのう」
弓子は哲の傍に座ってにじり寄るように言った。
「弓子の言うとおりだ。わしも、哲さんにのこってもらいたい。農業も体を使うだけではなくて、頭を使って品種や作付けの改良をして付加価値を高めないと生き残れない時代だから、若い人に継いでもらいたい。哲さんの腕を見込んでの話なのだよ。聞き入れてくださらんかな」
亀吉は哲と向かい合って座っている。膝談判といった格好であった。哲は困った顔をして聞いている。しばらくして、哲が口を開いた。
「東京に母が居ますので此処に住むわけにはいかないのです。病人ですから介護もしなければならないですし、東京での仕事もありますので」