色即是空
「わたしは、シングル・マザーの母さん育てられて、隆子さんのことは知らなかったから、実母が別に居るとわかったときは、頭が真っ白になった。母さんに反抗して父捜しをしていたときだったわ。哲の祖母が真相を明かしてくれたの。哲がわたしの弟だということまでわかって動転してしまった。それからいろいろあったわ。でもいまは、母さんを信じて生きているの。母さんのような女になりたいと心に決めているから、隆子さんを慰めてあげたい。それが母さんの気持なのでしょう。隆子さんの生霊が魔性の猫に乗り移ったりしないように、隆子さんを捜しだして、和解しましょうよ」
真理子は菜穂子の気持を推し量っている。
「隆子さんを悲しい境遇から抜け出してあげないと、真理子も哲さんも落ち着いた生活はできないでしょう。わたしはそのことに気付くのがおそかったようね。最近は、隆子さんの夢を見てうなされて、目を覚ますことが時々あったのよ。哲さんと隆子さんが一緒に暮らせるようにしてあげましょう。真理子の家を隆子さんに差し上げて、真理子はこの家に移って、わたしと同居してください。前田さんから畑を分けてもらって、野菜畑をやればよいじゃない?」
菜穂子の突然の提案に真理子はさらに驚いている。真理子は、母・菜穂子の心境が加齢によって優しさをまして来たことを察知した。これまでの母・菜穂子は毅然として寄り付きがたい雰囲気を備えていたものだが、それが薄れて、人を包み込むような柔らかな感触にあふれている。
文筆家稼業に専念し、夫とは意思の疎通を書くことの多かった菜穂子は、夫の浮気を見過ごしてきたが、不倫相手の隆子に真理子が授かったことで、夫とは離婚し、真理子は自分の実子として届け出た。この頃の菜穂子は、夫と隆子を絶対に許さないと憤慨し、隆子から産まれたばかりの真理子を奪い去ることで復讐したのである。
隆子はその後、この男との間で哲を産んだがこの男が、隆子の嫌がるのを無視して、哲を隆子の母に預けた。この男は隆子を妻として入籍していない。それでも、隆子はこの男と同棲をつづけていた。だが、隆子はこの男と別れ一人で暮らしているという話を菜穂子は哲から聞いたのである。
ごく最近に、このことを知った菜穂子は、自分が意地で通したシングル・マザーの生活に比べて、隆子は哀れだと思い、真理子を取り上げてしまった自分が、隆子を狂わせてしまったし、あの男・椎名の放蕩癖を助長させたのではないかと後悔している。そしていま真理子に、現在の心境を打ち明けた。
「隆子さんには、怒りのあまりひどいことをしてしまった。椎名に向ける怒りを隆子さんへの憎しみに変えてしまったのよ。わたしは浅はかだった。それにいままで気付かなかったのだから、傲慢な女性だったのよね」
「夫の子を隆子さんが出産したのだから悔しさと怒りが一度にやってきて、憎しみに発展したのでしょう、当然だと思うわ。母さんの意地で、わたしは幸福をもらったのよ。だのに、わたしは母さんを恨んでいた」
「シングル・マザーの娘って軽蔑されたのがくやしかったのね。父捜しに血眼になっていた。わたしは、真理子が自分の力で真実をつかむのを待っていたの。わたしには説明できないことなのだからね」
「哲のお祖母さんが真実を教えてくれたときは、血の氣が引いてしまった。それからだった、わたしが生き方を真剣に考えたのは。結婚するより独身を選ぶ気持が強くなったの」
「わたしの失敗が真理子に影響したのね。わたしは、積極的にシングル・マザーを選んだのではなくて、結果としてそうなったのよ」
菜穂子は、真理子がシングル・ライフを選ぼうとしていることに責任を感じている。怨讐を超えて隆子を救う心境に達している菜穂子にとって、真理子のシングル・ライフ願望は新たな悩みになっている。
黙々と野菜畑で鍬をふるっている哲の姿が、畑への小道を行く菜穂子と真理子の眼にはいったのは、初夏の風が流れるある日の朝だった。
「哲、おはよう。朝早くからご苦労さんね、今日はわたしも手伝うよ」
真理子が声を届かせようと大きな声で呼びかけている。
この日は、真理子も畑仕事をすることになっていたので仕事着姿である。亀吉と弓子が少し遅れて歩いていた。しばらくして四人が畑に着いた。
亀吉は夏野菜の収穫を哲と一緒に始める。弓子は真理子を伴って、近くの畝で苗の手入れを教えている。野菜を絶やさないで続けて出荷するためには生育期のずれた苗種を選ばねばならない。
「違った苗を育てるのは手間のいることだがね、それをきらっていたら、おまんまの食い上げになるからのう、せっせと働かねばならんですよ。子供を育てるのとおなじことでなあ、手塩に掛けるのを厭うたらいいものは出来ませんから、真理子さんもしっかりがんばっとくれやす」
弓子は腰をかがめてしゃべりながら手を動かしている。真理子は、その手馴れた手つきを見ながら耳を傾けている。
「真理子さんはこれからもずっと独身をとうさはるおつもりですか?」
真理子は、突然の思いがけない問いかけに戸惑う。
「うちは、子供が二人いましたけれど、姉のほうは結婚して出ていったし、弟のほうは就職してから帰ってこない。農家と漁師の仕事もお父ちゃん一代で終わりですわ。子供を産んでもこんな状態ですから、残念なんどすが、いざとなったら戻ってきてくれるでしょうし、孫も三人居るので盆正月はにぎやかですわ。どんなに不孝な子でも、親の死に水はとってくれるだろうし、先祖のお墓は守ってくれると信じています。真理子さんも結婚しはったらどうどす」
弓子は真理子に結婚を勧めているのだ。弓子が自分の家の事情を長々としゃべったのはその前置きだと真理子は直感した。真理子にとっては一番触れてほしくないことである。弓子は他人の事情を推察することなしに、自分の思いだけを親切心からしゃべったのであるが、それが真理子を傷つけたとはまったく意識していない。
近くに居た菜穂子は、余計なおせっかいだけれど、これが田舎の人のよさでもあると理解している。その親切心があるからこそ、野菜作りの指導を快く承知してくれたのだとおもった。
この日は日暮れまで働いて仕事がはかどったので皆一様に満足している。夕餉の食卓を囲みながら仕事のことやらよもやまの事に話の花が咲いた。
「哲さんは農業をやれるぞ。中途半端じゃない仕事ぶりだ。この家に寝泊りして農業をやる気はないか。嫁はんも世話してやるよ。この辺の農家の婿養子の口もある。考えてみんか」
亀吉はお酒がまわったせいもあって上機嫌である。哲は黙って聞いていた。
「わたしは、真理子さんに結婚をすすめているのだよ。女がいつまでも独りで居てはよくないからね。女は子供を産んで育てることで幸福になるのだから、家庭を持たないといけないよ。最近は独身の女が増えているそうだし、結婚しても子供を産まない女も多くなっていると言うけれど、それじゃこの世の中がもたないね。農家ではそれが深刻な問題になっているのよ。嫁は来ない、嫁が居ても子を産まないでは、働き手が居なくなる。老齢化で廃業農家が増えている。ほかの産業だって同じじゃないかね。女が女の務めを忘れるからこういうことになるのじゃわ」