色即是空
真理子は唖然としたが、鈴子を叱ったりしなかった。カーヤが何を考えていたのかわからないのだが、ひょっとすれば、子猫三匹の守に疲れたのか、自分だけの時間を持ちたかったのだろうと想像している。以前の猫騒動から、真理子はいくらかの学習をしていた。
「わたしたちが留守したので、カーヤも出かけたくなったのでしょう」
菜穂子がカーヤの気持を察したように言うと、鈴子が不思議な顔をする。
「どうしてそんなことわかるのですか?」
「猫も人間とおなじですよ。子猫といつも一緒だと疲れるので離れたいともあるでしょうよ」
「菜穂子おばさんは、猫に感情移入しているの?」
「わたしの想像じゃなくて、猫の動作がおしえてくれるのよ。わたしの感情を猫に移すのではなくて、猫の感情がわたしに伝わってくるの。そうでしょう、真理子」
菜穂子は、鈴子に答えながら、真理子に問いかける。
「猫のメッセージを解読できるといいのだけど、人間が身勝手だからわからないことが多いのよ。わかってやろうとしないから、反抗するか、すねるか、寄り付かなくなるのじゃないかしら」
「真理子の言うとおりね。自分の言いなりになるペットだと思うからいけないのよ。猫と共生していると思うことね。わたしは猫を飼わないから、その気持などわからないけれど、猫がこの家の庭に時々来て遊んでいる。自由にさせているのだけど、家のなかには上がってこない。他人の家だと思っているのでしょう。わたしが相手にしないから寄っても来ない。人の気持がわかっているのよ」
菜穂子の話を子猫たちが真理子の膝に乗って聞いている。
「飼い主をよく知っているのね。真理子おばさんに懐いている」
鈴子が感心したように言う。
「カーヤも真理子と仲良くしてきたから、心配しなくても帰って来るでしょう」
菜穂子は別段気にしなくても言いというように真理子に話しかけた。そのとき、庭で猫の鳴き声がした。三人がその方角を凝視する。
「カーヤじゃないの」
真理子が急いで外に出ると、カーヤが戻っていた。その顔は落ち着いたもので、勝手に家を出たことを悪びれる様子もない。戻ってくると信じていた菜穂子の予感は当たっていた。以前の猫騒動で、愛猫のマヤが、山で知り合った猫の仲間を連れて戻ってきたとき、ひどい仕打ちを受けた花崎家ではなくて、真理子の家を襲撃した謎が真理子に解けた。それは、カーヤの姿を見ているときに突然、真理子の頭に浮かんだのである。
「マヤは花崎さんに酷い仕打ちをされたとき、わたしが助けてくれるとおもっていたのよ。それをしないで家に閉じ込めたから、反抗したのね。花崎さんと口論したくなかったから引き下がったのだけれど、それが、マヤにとっては不満だった。だからわたしを攻撃したのよね」
真理子はそのときのことを思い出していた。
「真理子は花崎さんとのお付き合いを優先して、マヤの信頼を裏切ったの。あなたに愛されていると信じきっていたマヤを失望させたのでしょう。それが、あなたに対する憎しみに変わった。それに輪をかけたのは、カーヤがあなたの味方になって、猫の一団を攻撃したことね。マヤはあなたの愛がカーヤに移っていると感じたのよ。親権者を子供が奪い合ったのね。人間の世界でも子供たちは親の愛が誰に濃いか薄いかを測りあうでしょう」
「こわいはね。猫同士でわたしを取り合いするなんて。わたしは母さんのたった一人の子だから助かった。愛を満身に受けて育ったのだから、そういう感情とは無縁だったのね」
「真理子は、シングル・マザーの子って、お友達からからかわれて、わたしに反抗したよね」
「言わないでよ。そんな古いこと」
「そうね、いまはしっぽりと母と娘であることを楽しんでいますからね」
菜穂子と真理子は母と娘の絆を確かめ合っている。
白いリリーと黒いキティが部屋を駆け巡ると、二条の線が舞うように流れる。菜穂子と真理子はそれを静かに眺めていた。
「チャーはどこにいるの?」
真理子はチャーが傍にいないのに気付いてあたりを見回す。すると、カーヤがいつもいる場所にチャーがいた。カーヤは戻ってきてから、真理子に体を拭ってもらったあと、鈴子と別の部屋にいる。
「カーヤも子猫たちと別れるときかもしれないね。老いたので独りでいるほうがよくなったのでしょう。子猫の相手をするのが面倒になっている。真理子は子猫をカーヤに押し付けないようにしなさいね」
真理子が猫を連れて来て、わずかな期間だけれど、菜穂子は真理子の猫に対する接し方が情に薄いことを見抜いていた。真理子は一人っ子で育ったから、兄弟姉妹の味を知らない。それが子猫の扱いにも現われていると菜穂子は思っている。
「真理子は猫が好きだけれど、猫には慕われないタイプなの。東京に帰るときは、猫をこちらにおいてゆきなさいよ。鈴子さんに頼んでどなたかにもらっていただくから。鈴子さんは東京で就職する予定だから、鈴子さんを真理子の家に泊めてあげて頂戴。あなたの仕事も手伝ってもらえばいいでしょう」
「鈴子さんのことは喜んで引き受けるわ。しかし猫を連れて帰るなって、どうして?」
「これからも猫を飼っていると、化け猫騒動を起こしそうな予感がするからよ。カーヤはそういうタイプの猫ね、子猫たちがそれに絡むと大変なことになるよ。マヤの襲撃から立ち直るのに長い時間がかかったでしょう。ああいうことを二度と繰り返さないために用心してほしいの」
真理子には、菜穂子のこの言葉の意味がわからない。狐につままれたような顔をしていた。
「隆子さんの生霊がカーヤにとりついているかも知れないよ。真理子が生まれるとすぐにわたしが引き取ったから、生木を裂かれたようなものだった。隆子さんはあなたに会いたがっている。絶対会わないという約束をしたけれど、自分のお腹を痛めて産んだのですから、会いたいのが人情でしょう。その思いが生霊になってやってきているのよ。若い間はこらえられても年を取ると我慢できなくなる。むしょうに愛おしくなるのよ」
「生霊って、その思いが伝わってくるってことなの?」
「人間の渾身からの想いは霊波になるのよ。化身を使ってやってくることもあるから怖いの」
菜穂子は真顔で言っている。
「隆子さんは、やはり恨みをもっているのね。やり場のない思いから逃げ出したいのでしょう。その救いを真理子に求めているのね」
「母さんは、隆子さんが生きているってこと、どうしてわかったの?」
「哲さんから聞いたのよ。哲さんはそれ以外のことは何も教えてくれなかった。お祖母さんのことも話さなかったの」
二人が話し込んでいる部屋にカーヤがのっそりと現われた。
真理子は複雑な気持である。菜穂子の実子として入籍されているのに実の母は別にいる。その母・隆子が行方不明である。その隆子が恨みを持って菜穂子に霊波を送っているらしい。しかも真理子に娘恋しさゆえに霊的にまつわりついているといわれて、真理子は恐ろしくなっている。そして、こともあろうに、隆子の生霊がカーヤに乗り移って騒ぎを起こすと母・菜穂子が予感しているのだから、肝の冷えるような話である。この話の後、真理子は二人の母が自分をめぐって精神的な葛藤に引き込まれていることに感づかされた。