色即是空
三匹の子猫は庭に面した部屋にいる。真理子がリリーを膝に乗せて過去を振り返っていると、キティが胸に攀じ上がってくる。チャーは真理子の傍で転んでいる。窓際にはカーヤがどっしりとすわって何かを考え込んでいるような格好である。真理子は仕事へのチャレンジのなかで、新しい子猫たちに癒しを求めているのだろうか。あれほどひどい目にあった猫の襲撃だったのに、いまはその恐怖から立ち直ったようである。母との和解が心に生まれて、かたくなな反抗の姿勢が氷解すると、母を直視する余裕が生まれて、母への信頼にかわった。真理子は現在、その幸福感のなかにいる。それが猫への愛を復活させたのである。
リリーとキティが戯れると、チャーが跳びこんで行く。その度に、リリーとキティが飛び去るが、チャーが追いかけるのはリリーである。リリーは振り返りながら、チャーを誘うように飛び跳ねている。キティがチャーに跳び付くが、チャーは相手にしない。そんなときに、カーヤがキティの傍に寄って首筋を嘗めるように愛撫する。リリーとチャーは駆けっこを続けている。
「やめなさいったら」
真理子がしかると、リリーとチャーは一瞬、立ちすくむが、真理子の顔色を見て本気で怒ってないとわかると、すぐに駆けっこをはじめる。そのとき、カーヤがむっくりと立ち上がって、駆けているリリーとチャーに目を光らせたかと思うと、チャーをめがけて飛び掛っていった。驚いて逃げ惑うチャーは真理子に救いを求めるように駆け寄る。リリーもそのあとを追っかけてやってくる。
「カーヤ、ありがとう」
真理子がカーヤに声を掛ける。カーヤはゆっくり戻ってきて元の窓際にすわった。キティがその傍に寄る。
「夕食の支度をするから、静かにしていてね」
真理子はリリーとチャーを膝から降ろして立ち上がり、カーヤに近寄って頭をなでる。それに答えるかのようにカーヤが小さく鳴いた。猫のいる生活が再び戻ってくる。
数日後のこと、真理子が哲の相談を持ちかけた。
「哲にお願いがあるの、京都にいる間、カーヤたち猫の世話をしてほしいのよ。京都につれてゆきたいのだけれど、言うことを聞かないから家に置いておきたいの。猫の気持に逆らうと、騒ぎを起こすでしょう、以前のように。それがいやなの、母の家で騒がれたら以前より面倒よ」
「真理子さんの依頼だから引き受けますよ。だけど、猫が僕になつくかなあ。警戒して寄り付かないとか、逆らって来たら困るよ。猫を預かってくれる業者があるでしょう。そちらに預けたほうがいいでしょう」
「そうね、そんな単純なこと何故、気付かなかったのかしら」
「それを僕に聞かれても困るけれど、他人には預けたくなかったのでしょう」
「あなたも他人よ」
「そうかなあ、姉弟だからまったくの他人じゃあないでしょう。業者はあかの他人ですけどね」
「そんな発想は、わたしにはなかったけど」
「無意識に身内の感覚が働いたのでしょう。血は水よりも濃いですから」
「哲なら、気安く頼めると思っただけよ」
「それでいいのですよ」
「じゃあ、引き受けてくれるね」
「僕も京都へ連れていってください、猫を運びますから。猫たちは真理子さんと一緒にいたほうが安心しますよ。僕が車を運転しますから」
「ええつ、哲も京都へ行くの?」
「畑仕事も手伝いますよ。男がいたほうがいいでしょう。真理子さんと菜穂子さんだけでは、畑仕事は無理ですね。僕は幼い頃から祖母の畑を手伝っていたから慣れていますよ」
「そうだったの。哲が助けてくれたら、前田さんも喜ぶかもしれないね」
「お二人の畑作りだけじゃなくて、前田さんちの農作業も手伝いますよ」
「わかったわ、早速、母に話してみよう。前田さんの承諾が取れれば、本当に来てくれる?」
「行きますよ」
真理子と哲の電話での会話は、猫の話から発展して、哲が手助けに京都へ同行する話になった。
「哲がわたしと一緒に京都へ車で行ってくれるの。猫をそちらに連れてゆくからよろしくね。哲はそちらでわたしたちの作業を手伝ってくれるというの。前田さんちの承諾があれば、あちらさんの農作業もやると言っている。母さんが話し合ってくれないかなあ、お願いね」
真理子は急いで菜穂子に電話をかける。哲の申し出でに真理子はすっかり乗り気になっていそいそしていた。菜穂子が弓子に相談し、亀吉が喜んで来てもらうと伝えてきたのは三日後である。
「男手がほしいと捜していたところだから、哲さんが来てくれるなら助かるとおっしゃっていたよ。哲さんが泊り込んでくれるなら、わたしたちは家から通ってきてくれていいって。真理子もそのほうがいいでしょう。猫の世話もしなければならないのだから」
「わたしは真剣に畑仕事するよ、毎日でも通うわね。プロになりたいのだから徹底的にやるわよ」
「哲さんは、真理子のために働こうとしているのよ、それがわかっているかしら、あなたは無頓着な行動をしないで、そのことをわきまえて置きなさい」
「突然、何を言うのよ。哲の好意には十分感謝しているわよ」
「哲さんは、真理子と一緒に居りたいのよ。あなたの役に立つことは何でもしてくれるでしょう。哲さんの気持は大切にしなさいよ。姉弟だということを忘れないでね」
母・菜穂子との長電話が終わった後で、真理子は哲のことを思い直している。哲を便利屋ぐらいにしか思っていない自分に、自分自身が気付いていないことを、母に気付かされた思いがした。
「若い衆に来てもらうと仕事がはかどる。これまで七日かかっていたことが三日で済ませた。弓子も大喜びだわ」
真理子と哲が京都に来てから三週間ほど経ったある日の夕べ、前田さんちで、菜穂子も交えて、野菜作りの要領を亀吉から指導してもらっているときに、亀吉が哲をほめた。
「農家のお生まれなのかのう、手順も手さばきも上手なもので、感心しましたわ。お若いからやることが速いし、力仕事も軽々とやりはりますから、わてら夫婦はおお助かりですがな。主人も漁に出る時間が増えたって、喜んでいますわ」
弓子も嬉しそうに話している。哲は真理子の傍にいて笑顔で聞いていた。
「哲にそんな才能があるとはおもわなかった。喜んでもらえてよかったねえ。わたしも安心したわ」
真理子が哲の方を軽く叩いて嬉しそうに言う。
「真理子もわたしも頑張らなくっちゃいけないわね」
菜穂子がそれに応えるように真理子をみた。哲はすっかり面目を施した格好である。
この日、菜穂子と真理子が夜遅く京都に帰ると、留守番を頼んでいた女子大生の鈴子が慌てて玄関に出て来る。その様子が変だったので二人は驚いた。
「カーヤが見当たらないの。夕暮れまでは居たのだけれど、子猫とわたしが遊んでいる間にどこかへいったらしいのよ。帰ってくるかもしれないけれど、留守番の落ち度だものね。一応言っとくわよ」
鈴子はカーヤがいない事実だけを伝えるという態度で、それ以上心配しているようでもない。
「捜してくれたの?」
真理子は反射的に尋ねた。
「捜しようないでしょう。子猫がいるのだもの、目が離せないし、留守番を頼まれているのだから、外へ出られないでしょう」
鈴子はどうしようもないことだったと訴えている。