色即是空
農家の主婦の言葉が鮮烈に耳に残っている。その日は、ぽそぽそと雨が降っていたが、農婦は鍔の広い麦わら帽子をかぶっただけで作業していた。手カバーにズボンとゴム長の靴というスタイルが体に溶け込んでいる。菜穂子と真理子はピンクとグリーンの傘をさしてたっているのが対照的だった。
「自分で作付けしてみなさるなら一畝お貸ししますよ。娘の若菜が菜穂子先生のファンやでね。先生が此処に来てくれはったら喜びますわいな。真理子さんともお付き合いできますでのう」
農婦は腰を立て、手を休めて菜穂子と真理子を見ながら話していた。雨は止み、蒸し暑い夏の空気がわずかに流れている。
前田という表札のかかったこの農家は、洛北にあって琵琶湖にも近い。この農婦は弓子といって、野菜作りの名人といわれている。夫の亀吉は琵琶湖の漁師でもあって忙しい。この日も家にはいなかった。
「ご主人のお留守にお邪魔して悪かったけれど、よろしくおっしゃってくださいね。わたしたちに、お野菜の作り方を伝授していただきたいの。弓子さんの手をとることだから、ご主人のご了解を得ないといけませんものね」
菜穂子は丁寧におねがいしている。庭先の縁に掛けた三人に茶毛の大きな犬が近寄っていた。
「主人には話してあります。亀は乗り気で、菜穂子先生や真理子さんと一緒にやれるのを喜んでいますよ。わたしとはいつも喧嘩ばかりしとりますから。別嬪さんとやれば仕事もはかどるなんて言っていましたよ。ごめんなさいね」
三人が笑った。弓子は亀吉を亀と呼ぶ。夫婦のむつまじい仲がわかるようである。
「泊りがけでやってもらうときもありますで、お部屋は用意しときましょう。一年やれば季節のこともわかってもらえましょう」
弓子は気さくだった。娘の若菜が尊敬している先生だというので親密感を持っている。
「真理子さんには、うちの作業のお手伝いをお願いすることもありましょうが、勉強だと思って、お願いしますね」
弓子は一言付け加えた。
「喜んでやらせていただくわ。いろんなことを勉強したいですもの、せいぜい沢山言いつけてください」
真理子は快く答える。実習農場ができたので心が弾んでいた。真理子が畑仕事をするとは思いもよらないことだった。菜穂子は真理子の変わり様に首をかしげながら、微笑んでいる。
「真理子は改宗しなのかね。いまどきの都会っ子で、コンクリート・ジャングルが住み良い場所じゃなかったの。新築するときから、なんだかこれまでの真理子とは違うように感じていたのだけれど、まさか、野菜作りをしたいなんて、想像もしなかったよ。お花作りならまだ理解できたのだけど、本格的に農作業をするなんて、続くのかしら」
「わたし自身も、おどろいているのよ。新築のことで考えていたときに、突然、自然に帰れて、誰かが耳元で告げたの。不思議な一瞬だったけど、その声が母さんの声のように思えた。それで決心したの、わたしの人生を変えるべきときがきたとね。そうすると、小学生の頃に、母さんに連れて行ってもらった京都の農家のことが思いだされて、懐かしさがいっぱいに広がったの。あの風景を自分のものにしたい、自分がそのなかで働きたい、その体験をこれからのわたしの生活の原点にしたいと思うようになったの」
真理子は、自分の心情を母にわかってもらいたいと、真剣に訴えていた。
「わかったわ、おやりなさい。くじけないことが一番大切なことね。東京の家は新築早々、空き家同然になるかもしれなくてよ。真理子が京都にいる間は、哲さんに管理をお願いすればいいでしょう。こんなことになるのなら、東京に家を新築しないほうがよかったわね」
「思いつくのがおそかったのね。でも、あの家を建てたからこういうことになったのだし、まんざら無駄でもないでしょう。仕事をするのには東京のほうが便利だし、教室を開くのは京都の田舎では無理でしょう。生徒があつまらないからね」
「わたしが留守番にいってあげてもいいけれど、こちらの家を空っぽにすることもできないから無理ね」
「農繁期だけのことだから、それ以外は東京に戻ればいいでしょう」
「それで済むならばいいけれど、前田さんとよく相談しましょう、どういうスケジュールがいいか、それが決まってからのことでしょう」
「とにかく、踏ん切りがついてよかった。母さんのおかげよ。感謝するわ」
「大げさだね、真理子の努力しだいですよ」
菜穂子は、愛しそうに真理子を見ていた。
この道を何処まで行けばいいのかは真理子にもわからなかったが、歩き出したからは、引き返せないのだから前に進むしかないと真理子は覚悟を決めている。
―主婦の遊びじゃないのだから、本腰を入れて農業に取り組もう。前田さんの指導を受けた後、農業研修所の農業従事者研修を受けよう。農地を取得できる資格は持っておきたい。将来は女一人でもやれる農業をめざしたい―
真理子は、非現実的だと思われることに挑戦して、自分を試してみようとしている。それには、これまでの観念的な生き方に対する自己嫌悪がある。体を動かすことでそれから抜け出したいと思っている。その裏には彩子の行き方に対する反発が重なっていた。
―彩子のように都会を泳ぐ女にはなりたくない。シングル・ライフを放埓な生活に落ち込ませるのは、どんな理由を付けても、自分の破滅でしかないのだ。社会と真正面から向き合うのがまともな人間の生き方だと思う。彩子の家庭不信は、彼女の生い立ちからすれば、理解できないことはないが、わたしは、母の愛情を一身に受けてそだったのだから、母のような生き方に共鳴する。女が一人で生きることの意味と実像を母が示しているように思う。わたしがシングルでいるのは母にあこがれているからだ―
真理子は、長い反抗の末に到達した母への信頼を噛み締めしめている。真理子の挑戦を支えているのはこの信頼感から生まれている自信である。
真理子は再び猫を飼い始めた。三匹の子猫で、リリー、キティ、チャーと名付けた。リリーはメスで真っ白、キティもメスだが真っ黒、チャーはオスで茶毛である。以前から飼っているカーヤは大きくなって親猫格だが子はない。真理子の家の背後には雑木林がある。この林から以前、山猫がおそってきたのだ。そのときの飼い猫マヤはそれ以来姿を現わさない。あれからずいぶん日時が経過しているからマヤのことは遠い記憶になっている。それでも時々は鮮やかによみがえってくる。
―あの事件で猫には懲りたはずなのに、また猫を飼いたくなるのはどうしてだろう? 自分でもわからないのだが、最近は気分も落ち着いてきたので、猫に気が向くようになったのだろうか。体の具合もすっかりよくなったし、頭痛に悩まされたのはウソのようだ。これまでに失った時間を取り戻そう―