色即是空
「真理子のデーターにも眼を通したよ。こちらは、わたし自身の体験を超えるものを発見できるかが焦点だったの。真理子はかなり細かく分析しているけれど、シングル・ライフに隠された女の欲望のなかに、放埓な性的欲求があることは見抜いていないね。絵里はそこまでは話さなかったのね。K子の男遍歴もすごいものだった。女のシングル・ライフは家庭をもとないというだけよ。それ以外はすべてあるね。真理子も、シングルを選ぶのだったら、哲君とできちゃってもいいのじゃあないかなあ」
彩子は振り向いて真理子をみると、肩をすくめて笑った。真面目に仕事している彩子から突然、こんな言葉が飛び出したので、真理子は意表を衝かれたように吃驚して、彩子を見詰める。
「わたしと哲は姉と弟よ。知っていて言っているのなら、許せない」
真理子はこのとき色をなしていた。
真理子の新築が出来上がり、オープン・ハウスに、菜穂子、哲、彩子が招かれた。建物は大きくない平屋建てで、菜穂子の家屋とそっくりである。庭がひろくとってあって、ガーデニングを楽しめるように工夫してある。菜穂子の家が樹林に囲まれているのに対照的である。しかも日当たりのよい一角には菜園まで用意されていた。
今日の料理は真理子の手づくりである。ダイニングキッチンは広く取ってあって、此処で客をもてなすことができるようにしてある。真理子と三人はいま、六人掛けのテーブルを囲んでいる。彩子と哲が並び、菜穂子と真理子が向かい合っている。
真理子は、明石鯛の潮煮と刺身を出した。今朝、直送してもらったもので、魚河岸・「魚の棚」自慢の鯛である。それに瀬戸内の焼き穴子を煮の膳に添えている。どちらも母・菜穂子の好物である。京都から来てくれた母のためにと真理子は心配りをしていた。
「真理子の心尽くしありがとう。わたしの好きなもの、よう覚えてくれていて、嬉しいね」
菜穂子の食へのこだわりは、産地を選ぶことだと、真理子は知っていた。
「真理子は、親孝行なのだ。でも、京料理のほうがもっとよかったのじゃあないの?」
彩子が突き刺すように言ったので、菜穂子が驚いている。
「悪い冗談ですよ、彩子さん」
哲が即座に、真理子をかばうように、言い返した。
「彩子さんのお心遣いもありがたいですね」
菜穂子がさらりと受け流す。先ほど、少し気分を壊したようだったが、場の雰囲気が悪くならないように配慮する余裕が菜穂子には備わっていた。
「彩子にはかなわないわ。京都の料亭に案内してあげるから、期待しないで待ててね」
真理子は、いつもの彩子だというように、笑っていた。
「本当?嬉しいね、いつでも都合つけるから、よろしくね。この鯛も穴子も格別ね。真理子の心尽くしをありがたくいただくよ。ありがとう」
彩子は、照れ隠しのように言って、箸を運ぶ。
「わたしは、此処に落ち着いて、ゆっくり仕事をしようと思っているの。お母さんの紹介で出版社との長期契約も取れたので、あとはわたしの努力しだいよね。これまでのようにあくせくしなくていいの。気分も一新し、将来をじっくり見詰めたいのね。彩子にはずいぶん面倒かけたけど、仕事仲間としてこれからもよろしくね」
真理子は落ち着いている。菜穂子が自分の後継者として真理子を売り込んでくれているのが何よりも力強いバックアップだった。この日を境に、真理子は独立して生きる新しい覚悟を決めて、自然と向き合う生活を選択する。体を動かすことで、自分の心を鍛えたいと思った。精神と体のアンバランスな関係を止揚して、心のひずみを取り除くことが、自分の建て直しには不可欠だと気付いたのである。
これまでの自分を反省して、心のひずみが自分の行動に影響していたと、思い出をたどっている。その原点は、小学生のときに同級生からシングル・マザーの子と揶揄されたことにあった。それから、何としても父を捜し出そうという行動に駆られた。
その後のことは、自分自身の蒙昧をたどるようなものだと、真理子は静かに思い返している。ゆくゆくは、母をこの家に引き取って一緒に暮らそうか、哲も同居させてやろうか、真理子は急に生活感を持ち出した。心が安定してきた証拠であろう。母のバックアップを受けて生活安定のめどが立ったので、心が緩んだのだろうか、新築が心の転機をもたらしたのだろうか、その何れでもあるのだろうが、真理子にとってはフレッシュな感覚である。真理子はこの心境を、長々と手紙で彩子に書き送った。これまでだったら、メールで簡単に片付けただろうにと、自分でもおもいながら、このたびはメールにはできなかった。
―彩子は、どういってくるだろうか、わたしを笑うだろうか。親孝行したいとか、哲を弟として正式に認めたいとか、神妙なことを書いたのだから―
真理子は自分の気持を再確認するように手紙の文面を思い出している。母は気丈だから一人暮らしがいいと言うだろうが、その気になれば、いつでも受け容れる心積もりをしている。
手紙を出して一週間ほど経った頃に、彩子から電話があった。
「真理子、読んだよ。心境の変化もいいところね。菜穂子さんは絶対、真理子と一緒に暮らさないと思うよ。一人で暮らせなくなったら快適なホームに入ると思う。真理子の世話にならないでしょうよ。真理子はセンチメンタルになったのね。将来は配偶者が欲しいなんて言い出すのかなあ。シングル・ライフに疲れたのでしょう。哲君のことはほっておけばいいのじゃない。いまさら、姉弟の関係を確認するなんて可笑しいよ。これから仕事に乗り出そうって時に、余計なことは考えないほうがいい。ボーイ・フレンドのことだったら、話に乗ってあげるよ。よかったら男を連れて真理子の家にゆくよ」
彩子は一方的にしゃべった。真理子は聞きながら、彩子がいらついているのがわかる。
「彩子のボーイ・フレンドならどうぞ。わたしは男無しで生きてゆけるのだから心配無用よ。これから造園にかかるから、出来上がったら招待するね。ガーデニング教室を開くつもりなの。それに、種まきから収穫まで一緒にやる家庭菜園コースも設ける予定なのよ。なんだかわたし、自然とのふれあいを大切にしたくなったから、自然体験を仕事に取り入れることにしたの」
真理子は話をそらしている。手紙にはこのようなことはまったく触れていなかったが、彩子が、母や哲についての自分の考えに否定的なことを知って、そのことは繰り返したくなかったので、いまの自分の心境をこのような形で伝えた。彩子はしばらく無言だった。意外なことを聞いて驚いたのかもしれない。
「成功を祈るわよ」
彩子はそれだけ言って電話を切った。その音が真理子の耳に響く。すごく不愉快になったらしい彩子の様子が目に浮かぶ。
三
真理子は、母・菜穂子に案内されて京野菜の栽培農家を訪ね、土と野菜の相性を懇々と教わった。
「相性が悪いと何もできんですえ」