色即是空
「当たっていますね。真理子さんのように世の中に立ち向かうのじゃあなくて、流されていることに安住しているのですね。両親に捨てられたのが、僕の人生の出発点ですから、成るがままに抵抗しないで生きる知恵が身についたのでしょう。人には逆らわないで便利屋をしていれば飯は食えますからね」
真理子は、哲の言葉を聴きながら、哲のフリーター稼業と自分のシングル願望とは、正反対な考えに立っていることがわかって人の思いの複雑さを実感する。
「親を知らずに育ったことが、哲の人生にいまのような路線を敷いてしまったのね。世を捨てているような気持を持っていて、世にすねているのじゃあないかなあ。わたしは、境遇に反発して戦ってきたけれど、母の真実を知ったときから、積極的に母と同じ道をとって、シングル・ライフを選ぶことにしたのは哲の知っている通りよ。 彩子は、フリーターとシングル願望の共通項を捜そうといったけれど、積極的に選択するものと、やむを得ず落ち込むものを分けるのが先決条件ね。積極派は自分流の生き方を求めているでしょうが、消極派は閉塞状態に置かれているのじゃあないかしら」
真理子は、自分流の生き方という言葉に力を入れている。
「閉塞状態って、すごい言い方ですね。僕はそういう心境にはないですよ。僕には上昇志向がないですからね」
真理子は、哲と自分はかみ合っていない歯車のようだと思った。
「上昇志向のない人がフリーター生活をエンジョイするのは勝手だけれど、上昇志向のある人がフリーターになるのは、結婚したい女がいつまでも独身というのと同じで、抜け出したい境遇じゃあないかしら。こういうのは自分流じゃあなくて、仕方無しにということでしょう」
哲は、真理子の言葉をさえぎりたくなった。
「僕が仕方無し派でないことは認めてもらっていますよね。僕のようなフリーターは、上昇志向がないですから、落ち込むこともないのです。逆に、仕方無し派は、自分の境遇から抜け出せないと鬱になる可能性が高いのです。仲間にもそんなのがいましたね。それからニートになったのがいました。仕方無し派のシングル女性も同じじゃあないですか。真理子さんは、違いますよね、シングルに誇りを持っているのだから」
真理子は、哲に揶揄されているように感じて、何も答えなかった。自分は哲の心を知らず知らずに傷つけていたのではないかという危惧も湧いている。
真理子は哲から受けている重圧のような雰囲気を払いのけたい気持だった。哲の心を傷つけたのではないかという反省がその思いに重なっている。
―わたしは、何でも自分で決め込んでしまう癖がある。結論を急ぐのも悪い癖だ。自分の思ったことをまっすぐに実現しようとするのだわ。相手がどう思っているかを推し量る心の余裕がない。哲の思っていることに配慮しないで、自分の意見を押し付けたことになったじゃあないかなあ―
真理子は先日の哲との会話を思い出しながら、自分を責めている。
―この気性はどうにもならないものかしら、わたしのなかに住み着いて、わたしを支配しているのだ。わたしは両親のことは知らないから、実子のように育ててくれた養母の菜穂子さんから受けた影響なのだわ。哲とわたしは同じ両親から生まれたのだが、哲は祖母に育てられてその影響を受けている。血のつながりよりも生後の育ち方のほうが人格の決定的な因子になるのだろうか?いや、そうじゃないだろう、哲の生き方は両親に似ていると思う。とすれば、わたしにも、哲のようなルーズな生き方を受け容れる遺伝子が存在していることになる。二人の心に不思議と、通い合うものがあるのはそのためなのだわ―
真理子は、哲と自分の共通点を血のつながりに発見する思いであった。
―わたしと哲の生き方は、本質的には変わっていない。形が違うだけで、ともに孤独に惹かれているのだわ。両親を知らないことが心に孤独感を植えつけたのね。だから、家庭とか組織とかに無縁な生き方を選んでいる。無意識の選択だから自分では説明が付かないのだわ―
真理子の思いは二転三転しながら終着へと向かっている。それは、哲と自分の心の相似形に気付くことで、おぼろげな安堵を与えようとしている。
真理子は自分と哲が姉弟だという実感を持つようになっている。
―わたしと哲は、両親の顔は知らないのに、心のどこかではともに両親を慕っているようだ。そして、反発し、憎しみも持っている。わたしたちを育てなかった両親だが、血は血を呼び合い、心は逆らっている。哲もわたしも、自分の境遇に満ち足りないものを持っている。哲が投げ出された境遇をそのまま流れている魚だとすれば、わたしは境遇に逆らう獣なのかもしれない。哲は社会に同化し、わたしは異端を選んでいる。哲は優しい心を持っているが、わたしは気がきつい。それは、自分でもわかっている。哲は多分、似合った女性と結婚するだろうが、わたしは結婚相手の男は選ばないだろう。哲とわたしの生き方は違っている。哲は両親の幻影を思慕しているようだけれど、わたしは違っている。真実を知りたいという思いで、はじめは父捜しをしが、祖母から父の不倫相手の隆子の子だと知らされてから、それを秘めて育ててくれた母の菜穂子に感謝し、父である椎名に冷めた感情を持つようになった。隆子に対しては哀れな女だという同情は残っているが、会いたいとまでは思えない―
真理子は自分の気持を整理する静かな時間を持って、これまでを回想しているようだった。
―出生の秘密がわかる前には、わたしは哲を異性として愛する気持が激しく動いていた。しかし、姉弟であることがわかって、愕然とし、哲との距離をとるように勤めた。だけど、哲に対する愛は、激しく流れる川の水を堰き止めるように、時にはあふれてほとばしり出ることがあった。そのわたしを救ってくれたのは、哲の控えめな態度だった。彩子は、わたしが哲と恋愛することをそそのかすようなときがあった。わたしと哲が姉弟だということを知ってからでも、わたしをそそのかしていた。彩子は、わたしと哲が禁じられた恋におちいって破滅する姿を楽しむつもりだったのだろうか―
真理子は自分の心が落ち着いてくると、これまでのことを客観的に振り返る余裕ができたのか、彩子にも冷静な判断を下している。
一方、彩子は真理子と哲が寄せた情報を整理し、雑誌の特集記事をまとめるのに余念がなかった。仕事になると彩子は平素のような冗談も言わずに顔を机にうずめるように働いている。目は資料とパソコンの間を忙しく往復していた。
「哲君、このアンケートは特性がつかめないよ。聞き取りのほうは面白いね。フリーターの明暗が鮮明に出ている。社会に入り込めない若者という点は共通しているね。その原因の分析をしっかりやれば読者を獲得できる。それが知りたがっていることだから、フリーター予備軍の興味を引くように書きあげるとしよう」
彩子はパソコンの画面を見ながら、傍らの哲と話し、手先は画面の編集に忙しく動いている。