色即是空
「親子の関係が多様化したと思えばいい。生まれたときからつききりで子育する母親も居れば、二、三歳から保育園に子を預けて働きに出る母親もいるし、施設に入れる母親もいる」
「その理由は何でしょうか?」
「働かねば食えないからと言うのが一般的な答だろうが、母親業を放棄して独身のように外で働くことを選択する女が増えたのも原因だろう。女性の男性化現象だろう。経済力があれば、ベビーシッターやホームヘルパーを雇って、育児や家事をやってもらい、自分は勤めに出るとかビジネスをする女性が多くなっている。家庭から自分を解放しているのだよ。昔なら上流社会の婦人の生活スタイルだったが、現在は中産階級とか一般家庭にも広がっている。これにつきものなのは、恋のアヴァンチュールだろ。女の浮気がふえているよ。性に対する潔癖も薄れている。それが子供の世代にも浸透しているのだ。子供は親を冷めた目で見ている。性の神秘性は崩壊しているからね。小中高の性教育や、インターネットなどのメディアで性の知識が氾濫しているだけでなくて、子供自身が大人の性犯罪の犠牲者にもなっている。子供は早くから母親を女としてみているよ。子育てを放棄すれば親の愛情が子供に届かないし、子供は精神的な孤立を高めて、さまざまなかたちで親に反抗するだろう。俺の判断では、性の解放が家庭を崩壊させている。経済的理由での家庭崩壊は、収入増で阻止できるが、人間性に起因するものは地獄に落ちることがあるよ。だから、その前に離婚するのが救いになる。俺たち夫婦はそれを約束しているのだ」
「破滅が前提の夫婦みたいですね。先輩は考えすぎじゃあないですか。夫婦や親子には、同じ船に乗った間柄という運命共同体みたいな了解がお互いの間にあるとおもいますよ。僕は、真理子さんや彩子さんのようなシングル願望に疑問を持っているのです。先輩は、賛成のようですけれど」
哲はAの話が納得できないようだった。
「君は両親とともに生活できなかったから、家庭願望が強いのだ。君が依然話したとおりだと、真理子さんはシングル・マザーに育てられたことを肯定的に受け止めることで母と同じ道を選び、彩子さんは家庭崩壊を体験してシングルを決意している。シングル願望にいたる道筋は違っているが、家庭に束縛されたくないという価値観は共有しているね」
「寂しいですね。シングル願望の女性が増えればこの国の将来は真っ暗です。少子化が決定的になりますから。両親の揃った家庭で子供がすくすく育つ環境を作るべきです。女性がシングル願望を抱くのは男性にも責任があると思いますね。男性が女性を温かく包み込む包容力を失っているからじゃあないですか」
「ずいぶんと常識的な意見だね。君はどうしてフリーターやっているのだ。常識的には正社員を選ぶべきだろう。フリーターと結婚する女はいないよ、生活が安定しないからね」
「先輩もフリーターでしょう。ちゃんと結婚なさって、子供も居るじゃあないですか」
「俺は例外だ。正社員のときに結婚したのだ」
「フリーターになったいまでも家庭があるじゃあないですか」
「積極的フリーターだからね」
「先輩はシングル・マザーを積極的な女性の生き方だと肯定されていましたが、僕は不自然だと思っています」
哲はシングル・マザーという生き方を選ぶ真理子や彩子に賛成できないという気持を持っていた。
真理子は彩子の紹介で、銀座のクラブで働くベテランのホステス・絵里と会った。
「シングル願望だって? それは負けた女か気高い女かで意味が違っているよねえ。男に散々貢いで遊ばれて捨てられた女が、たどり着いたのが、シングルがいいって結論だって、言う仲間が大勢いるよ。K子に聞いてみなあ、高校時代から男を作って、結婚の約束までしたのだけれど、大学に入ってから彼氏は別の女と仲良くなって、そっちへ乗り換えたので、別れるなら慰謝料を出せと迫ったのだ。そしたら、男はK子の要求額の十倍のカネをはらった。それが、K子のプライドを傷つけたといっていた。逆じゃない? K子はそう思わないで、カネで片付けられたと憤慨していた」
「慰謝料を請求したのはK子さんなのでしょう?」
「断わるのを期待していたのだって。K子は慰謝料がほしかったのじゃあなくて、そういえば、責任を感じてくれるだろうと思ったのだって、あまいよね。K子は純情可憐な少女だったのだ」
絵里と真理子は、開店時間前の客席でソファーに向かい合って座っている。
「K子さんはそれでシングル願望を持つようになったの?」
「傷物だから結婚はできないって思い込んでいるらしいのよ」
「ずいぶん古風なのね。いまどき珍しい方なのね」
「そういう子なのだ。そんな女の子もまだいるってこと。わたしたちの商売の世界では、男はドルだけの値打ちしかないと割り切っているんよ。だが、K子はちがっていた。だから、此処のお勤めも一年と続かなかった。いまは法律事務所に勤めているよ。会うのだったら紹介してあげる。話は変わるけど彩子はたいしたタマよ。男を次から次へと変えている。彩子は性交しても恋愛しないタイプなの。仕事では成功しているキャリア・ウーマンで、気高いシングル願望の持ち主だよ。このお店には男客をよく案内して来てくれるからありがたいお客なの。勘定はいつも彩子が払うのよ。K子とは対照的なシングル・ウーマンね」
真理子は、絵里から彩子の別な顔を知らされたおもいがした。彩子はキャリアとしても女としてもすごい生き方をしていると知って、恐ろしくもなっている。
「彩子から、聞いたことだけど、あなたもシングル願望なのだって、彩子が言っていたよ。わたしのシングル願望は執念とか怨念が出発点だけれど、あなたのは感傷的動機からなのだってね。K子はどちらなのか、直接会って、たしかめるといいわ」
絵里はかなりのことを彩子から聞いていると、真理子は直感し、女に特有の警戒心が沸いてくる。自分もまた彩子に取材されているのではないかと思うと、彩子の本心がわからなくなった。
真理子と哲の取材は、これからも続いて、女性のシングル願望やフリーターに対する賛成と反対の意見が、それぞれ体験から寄せられたのである。
「フリーターを怠け者とか落伍者だという意見は、さすがに、自分自身からは出しにくかったようだけれど、他人からそう見られていると意識している者はかなりいましたね。白眼視されているという被害者意識の持ち主もいました。フリーターを積極的に評価して胸を張って生きているAさんなどは、正社員にもすぐなれるし、起業もできる人なのだ。こういう人は、自前の生き方を選んでいるフリーターでしょうが、少数派だった。僕は自分自身がフリーターしているのを、自然の成り行きだと思っています。それが僕の生活スタイルなのだって思っていますから、抵抗感も悲哀観もありませんね」
「哲はおばあさん育ちだから、甘えん坊なのでしょう。世の中にも甘えている。好きなことをして生きて行けたらそれでいいと決め込んでいるのでしょう」