色即是空
「じゃあ、ともに異端者の道を歩みましょうよ」
真理子と彩子は顔を見合わせて笑った。
「異端者に祝杯!」
彩子の発声で、二人は、ワイングラスをあわせ、一気に飲み干した。
彩子の部屋は、地上三十階にあって、総ガラス張りの居間からは都心の夜景が眺められる。その眺めを遠望しながら、二人はなお会話を続けている。
「真理子に男の子を紹介しようか。哲君の代わりといえば可笑しいけれど、あなたは年下の男が好きなようだから」
「嫌よね、突然そんなこといって。彩子の意地悪」
「意地悪じゃあないよ、親切だよ。一人ぼっちじゃあ、さびしいでしょう」
「わたしだって、男ぐらい見つけられるわよ」
「それそれ、それがいけないの。ほっておけば、親父のような男に引き寄せられる危険があるの。真理子の深層心理には父親幻想が焼きついているから。頭の中では、父親を消去していても、心には残っているものなのよ。人生をリセットしたければ、若い男の子と愛し合うことが必要なの。あなたにとって男は、その若者だけになって、父親の幻想を完全に消去できるでしょう。過去を復元不可能にすれば、あなたは、新しい独自のドメインに生きることができる。そのためのURLを獲得しなさいよ。男の子は人間URLってことね。付き合ってみて、気に入らなくなれば、解約すればいい。そういう態度が取れなければ、女の一人暮らしは無理よ」
「一人暮らしって、男と一緒に暮らしていても?」
「精神的に自立しているってことね」
「彩子の言っていることがわからないよ」
「肉体関係があっても夫婦じゃあない。同棲している他人というわけよ。いつでも離別できる精神的距離を置いて付き合うの。相手にそのことを理解させるのよ」
「ずいぶん厳しいわね、彩子はそういう生き方をしているの?」
「個人の生き方はお互いに不可侵だっていうことよ」
「子供が生まれれば変わるでしょう?」
「男と家庭を持つか、シングル・マザーを選ぶか、その決断によって、生き方は変わるでしょうね。男に拘束されたくなければシングル・マザーを選ぶでしょう。真理子の人生観が試される局面ね」
「彩子はどうなの?」
「わたしは、子供を産まないと決めているの。独身ライフをエンジョイして、果てるつもりなのよ」
真理子は、彩子の強さに圧倒されている。
この日、二人は独身願望について深夜まで話しあった。真理子は、夫婦と子の揃った家庭の味を知らないで育ったから、家庭願望を虹のように描いて来た。しかし、母の真実を知ってからは、母のように生きる決心をしたのだった。
「真理子の独身願望は、散々逆らってきた母への理解が出発点なのだ。菜穂子さんのように生きようと思ったのでしょう。それって、男への絶望をともなっているのよ。その絶望の上に立って、女の独立自尊を生き方で示そうとするのね。菜穂子さんはそれを実践して来た。別の男と再婚するつもりだったら、実子でもない真理子を引き取って育てるなんてことしなかったでしょう。菜穂子さんは結婚に価値を見出せなかったのだ。そして、椎名は真理子を育てる意志がないこと見抜いていたのよ。隆子さんという実母がいるのに、真理子を引き取るなんて、普通の女にはできないことね。実子である真理子を手放しに来た隆子さんにも、母親の情を見出せなかったのでしょ。菜穂子さんのシングル・マザー生活は、真理子に対する愛と女の意地がブレンドされて出来上がっていたのでしょうよ」
「彩子の分析はあたっているような気がする。それがわからないで、わたしはもがいていたのね」
「わたしの独身願望は、父と母の不和を見続けてきたから、夫婦関係に疑問をもったの。父は浮気性で母を悩ませていた。相手の女は一人や二人ではなかったらしい。自営業で金回りがよかったので、女遊びは男の甲斐性だといっていた。子供はわたしと弟のふたりだったが、高校まで親と一緒に暮らしていたけれど、二人とも、大学は東京にでてきたから、家にはたまにしかかえらなかった。わたしたちが大学生時代に母は父と離婚したの。父は遊び相手だった女を家に引き入れた。それ以後、わたしたち姉弟は父とは会っていない。弟は大学を卒業してから母と暮らしている。わたしが結婚しないと決めたのは母のような惨めな女になりたくなかったから。母は自分の人生を父に貢いで老年を迎える頃にすてられたのよ。それがわたしの反面教師になったのね。男に対する嫌悪観と恐怖心が、わたしの独身願望の根っこになっている。子供時代の心の傷がそのまま住み着いているから、PTSDというものでしょうね」
彩子は話し終えるとしんみりして涙ぐんでいる。昔の経験を思い出したようだった。真理子は彩子の涙を始めてみた。独身願望の原点に触れることで、自分の過去を反芻することになったのが原因だったのではないだろうか、彩子の強さの裏側にくっついている悲しみには、家庭願望が去りがたく残っているからではなかろうかと、真理子は彩子の心境を想像している。
「彩子の涙、はじめてみたよ。わたしがなやませたのじゃあないかなあ、ごめんね」
真理子は戸惑っていた。
「ごめんねは、わたしのセリフよ、しめっぽくなっちゃった。こん話は止めましょう。明日に向かって、人生をデザインしようよ」
彩子は感傷を振り切るように立ち上がって、窓辺から外を見る。深夜でも電光のかがやく黒いビルが視界に入る都会は眠りを忘れているようだった。月の光がそれを大空から照らし出している。その光に乗るように、星のきらめきは何事かを地上に伝えているようだった。
「彩子の空想はこの景色からうまれるようね。地上ははるか下にあって大空に近いこの部屋には夢を膨らませるものがあるのよ。星からのメッセージを解読しているのじゃあないの?」
真理子はおどけるように言って、彩子の背に腕を回し、寄り添って立った。
「空想って、感傷よりいいわよね、未来に向かっているのだから」
彩子は逆らわずに応えている。
「空想といえば失礼よね。理想が湧くのでしょう、宇宙からの霊波を受けて。彩子は霊感が高いから」
「真理子の気持、よくわかっているよ。二人で空想空間を現実のものにしましょう。わたしたちは、世間の常識に逆らって生きているのだから」
「常識は時代とともに変わるのよ。わたしたちの生き方が常識になる時代が来るかもしれないわ。アメリカでは同性夫婦も市民権を得ているのでしょう? シングル・マザーは、それよりもまっとうよ」
「真理子のようにこだわらないで、当然のように行動すればいいのよ」
彩子が、ようやく平素の元気を取り戻した。
翌日は、彩子の提案で、哲と会うことになった。哲は渋谷界隈で働いているので、表参道の交差点近くの喫茶店で会う約束をする。彩子は哲のケイタイ番号を知っているので連絡は簡単だった。彩子のマンションは青山にある。
その喫茶店は、彩子が哲に仕事を頼むときに使う店だった。青山のマンションからも渋谷からもほぼ等距離にあるので、二人の待ち合わせ時刻を決めやすいのがその理由である。
彩子と真理子が店に着くと、哲はすでに来ていた。
「忙しいのでしょう。急に呼び出してすまないわね。真理子が哲君に会いたいといってきかないから、ごめんね」
驚いたのは、真理子だった。