色即是空
―わたしが、さまよっている間に、猫たちは成長して自分の道を歩んでいる。マヤはすっかり山猫に馴染んで野性化しているだろう。その行方を知りたいが、以前のような騒動はもうゴメンだ。あれから、わたしまでが狂ってしまった。父捜しに血眼になって探索騒動を引き起こしたわたしは、母を憎んで復讐しようとしたが、振り返ってみれば、マヤの行動と似ていた。マヤは恋を奪われたための復讐をわたしに向けた。わたしは、幻想の父への愛を満たしたいために母に逆らった。マヤは、わたしのその後の行動を示唆していたのだわ―
真理子は、マヤのことをおもいだして、急に怖くなった。
―もしかして、わたしは、猫にとりつかれていたのではないか。わたしは、復讐行動の中で、猫のような目をしていなかっただろうか。爪を立てて飛びかかろうとしていたのではないだろうか。
きっと、そうなのだわ、激しい頭痛の襲われながら描いた猫の絵は、狂気を感じさせると、彩子が言ったわね。あの時、わたしは、暴れ狂う猫以外は見えなかった。どの猫の目も獲物を狙うときのように爛々と光っていた。わたしは、それを絵に描いたのだわ。彩子と哲が訪ねて来なかったら、わたしは、発狂していたかも知れない―
真理子は、夕焼けが染める赤い光の届く部屋で、思い出に耽っている。その光景は、猫騒動のときと同じように、不気味だった。
真理子は、自分自身の将来に不安を感じている。真理子の心に突然の空白ができたのである。これまでの事件から開放されて、気分は楽になり、生活にも落ち着きを取り戻せると思っているのだが、これに冷や水をさすような感覚が戻ってくるのである。
それでも真理子は、仕事に没頭することで、自分を忘れようとしている。その真理子を猫のカーヤが首をかしげて見詰めていた。
「カーヤ、どうしてそんなにわたしを見詰めているのよ。わたしは、これからカーヤと同じように、独りだよ。仲良くしようね」
真理子は、自分の寂しさをカーヤに埋めてもらいたいような心境で語りかけていた。真理子が留守をしていた間に大きくなったのは猫のカーヤばかりではなく、庭の木も茂り放題で、外の光をさえぎり、屋根にも落葉が堆積している。これでは、まるでお化け屋敷だと人から言われても致し方ない風情だった。
真理子の生活から日常性がすっかり抜け落ちていたことを証明するかのように、屋敷は荒れている。この屋敷の清掃や修復から始めないと、真理子の生活は正常化しない。隣近所の人たちは、真理子からなんとなく距離を置いているのが、真理子にはよくわかっていた。真理子がご近所に挨拶に行くと、
「お帰りになったのですね。どこかへ行ってしまわれたのかと思っていましたよ。このままだと、お家は荒れ放題になるだろうって、みんなで心配していたの」
そういったのは、隣の奥さんだった。
「お独りですの? 以前に姿をお見かけした男の方は、どうなさったのですか、ご一緒じゃあないの」
向かいの奥さんが興味深そうに尋ねた。真理子は、自分の行動が監視されているような嫌な感じを受け隣近所の人たちから疎外されているような雰囲気を感じ取っていた真理子は、ある日、反撃に出る。その手始めに、家屋の立替を始めた。
―一人暮らしの嫌な女ではなく、男と暮らす道を選ぼう。彩子に紹介してもらって同棲すればいい。結婚なさったのとか、聞く人も居るだろうが、ビジネス友達だといってやろう。きっと、男女の関係ができるだろうと窺がっている連中には、その期待にこたえてやってもいい、出産適齢期だし、結婚を前提にしないで、シングル・マザーになってやろう。母がわたしを育ててくれたように、わたしも子供を育てよう。仕事だけの生活は味気ない。男がわたしと別れたくないといえば、それもいいが、結婚して入籍するのはいやだ。男にしばられたくないのだから。男も自由にわたしから離れることができるのだ。家族ではなくて、個人が主体性を持って精神的にも、経済的にも独立している共同生活があっていいのではないか。ファミリーという安易な関係は作らないで、子供は成長するまで、わたしが養育すればいい。わたしの生い立ちをコピーすることになるのだが、実子という点では違っている。その感情をすら捨てることができれば母のように強く生きられる。わたしが求めているのは、個人と個人の愛だ。母がそれをわたしに注いでくれたように、わたしも同じ愛を子にそそげばいい―
真理子は、これからの自分の生き方の原型を母に求めたのである。隣近所の人たちの好奇心を突き放して、自分らしい生き方をしようと決心し真理子が自分の決心を彩子に伝えたのは数日後だった。真理子は彩子のマンションにいる。
「ずいぶん、はっきりした結論を出したのね]
彩子は、半ばあきれたように真理子を見ている。
「男を信じないと言うよりも、母の生き方に共鳴したの。自分の過去を消したくないから、母と同じ道を選ぶのが運命に忠実だと思ったの」
真理子は真剣だった。
「真理子は、恋愛したこと無いのだ。学生時代から父親捜しに熱中していたからね。哲君には少し気があったようだけど、姉弟じゃあ、恋愛の対象にならないもの、あきらめたのでしょう?」
彩子はくすぐるような目で真理子を見ている。
「そのことは無しにしよう。それより、彩子は好きな男の子が居たでしょう。その後、どうなったのよ?」
真理子が逆襲するように尋ねる。
「荒木君のことね。大学を卒業してから会っていない。彼は卒業すると急に態度を変えたのよ。わたしとのことは、大学時代の遊びに過ぎない。それくらいのことは君もわかっているだろうて、言ったのよ。その上、最後のセックスを求めたの」
「彩子は拒否したのでしょう?」
「やっちゃった。別れのサインだと思って」
「まさか?」
真理子が信じられないという顔をした。
「本当のことよ。彼に未練を残したくなかったから。それ以来、恋愛は絶っているのよ。本気で愛した人とは愛を伴はないセックスなんて真っ平だからね。彼に気持を捧げていたわたしが馬鹿だったの。男のことで二度と悔しい思いはしたくない。男を愛することを拒否する心境になったのかなあ」
彩子は自分を見詰めるように言った。
「彩子、ボーイ・フレンドはいないの?」
「ワン・ダースぐらいいるよ。仕事の付き合いをかねてね。恋人じゃあないから、特別な感情はないの。セックスをすることはあるけれど、気晴らし程度の感覚でいるから、あとがないのよ。相手の男もそのつもりだと割り切っているでしょうよ」
「彩子って、強いのね、失恋の裏返しかなあ」
「愛を捧げるという愚かなことはしなくなっただけよ」
「彩子のように割り切って生きてゆけるかなあ」
真理子は迷いを顔に出している。
「真理子は、その決心をしたのじゃあないの?」
「そうだった。それで彩子に相談に来たのに、普通の女にもどったのかなあ」
「普通の女?」
「適齢期に結婚して家庭を持って、子育てをするのが普通でしょう。マイホーム願望のある女性っていう意味よ」
「結婚願望がなくて独身を通すキャリア・ウーマンは特別な女性ってことになるの?それじゃあ、真理子もわたしも特別な女性なのね」
「多分、異端者でしょうね。彩子もわたしも」