色即是空
真理子はこの情景に圧倒されながら、母の出迎えを受けた。久しぶりに見た母は、すでに白髪を忍ばせた初老の姿であったが、背筋はしゃんと伸び、顔にも艶がある。
「お母さん」という真理子の挨拶に、母は抱擁で応えた。しばらくそのまま抱き合っていた二人は、お互いに涙をぬぐって、嬉しさに体をおどらせながら、家の内にはいった。真理子が通されたのは、広々とした十二畳の和室で、床の間は違い棚を合わせた本格的な造りである。
母・菜穂子の文机は黒一色の漆塗りで光沢が冴えている。その上に塵一つ乗っていないのが憎らしいほどの行き届いた出迎えであった。
「病気はすっかりよくなったらしいのね」
母のいたわりのある声が、真理子を恐縮させる。
「うん」
真理子は子供にかえったように頷いた。何か言おうとしたが声にならない。
「ここでよければ、しばらくはここで過ごしてもいいのよ」
母が重ねて声を掛けてきた。
「美しいお庭やね」
真理子は、座敷の広い廊下の外を見ていった。母の言葉に答えないで違ったことを言っている自分に、真理子は当惑を隠せなかった。話をそらそうとしたわけではないが、咄嗟には返答しかねたのである。
「四季のお花が咲くように造園してもらったのよ。潅木ばかりだからお部屋の日当たりもいいでしょう」
母の言うように、座敷には秋のやわらかい陽が差し込んでいる。
「しばらく泊めてもらおうかなあ」
真理子は、やっと素直になった。
「お母さんは、この広いお家にひとりで居て、さびしくないの?」
真理子が自分から尋ねた。
「お昼間は、お手伝いさんに来てもらっているし、人の出入りも結構あるので、にぎやかなくらいよ。今日は、真理子が来るのでお休みしてもらったけれど」
母は明るかった。真理子も次第に打ち解けて、母との会話が、わだかまり無しに運び、二人の秘密は共有される。その夜、二人は枕を並べて寝床に入った。それは実の母と娘のようであったと、真理子は、そのときのことを後日、彩子に話したのである。
真理子と母の会話は、椎名のことには触れないでおわった。真理子は菜穂子の実子になりすまし、菜穂子もそれを当然とした態度で臨んだ。
―親は居なくても子は育つ―
この言葉の通りに成長してきた菜穂子であったが、それだけに逆に、子に対する愛情が深い。それには、自分が腹を痛めて産んだ子であるからではなくて、子供そのものに対する人間愛にささえられている。これは、施設に育ったときに与えられた愛を自分の心に刻み込んだからであろう。菜穂子が独立して生きてきた原点は、施設で養育を担当してくれた女性の博愛にあることを、真理子は会話の中で確認した。
「優しさが瞳にこもっていた」
母・菜穂子のこの言葉を、真理子は眼をかがやかせて聴いたのである。
―母は、すばらしい人生の出会いを、幼い頃に逆境の中で神から与えられたのだ―
真理子は、そういうことをまったく知らないで育った自分を恥ずかしく思った。
―母が自分を育ててくれたのは、わが子への愛という血のつながりではなくて、神が女性に授けた母性愛なのだ。それも知らないで、自分は血のつながりにこだわりすぎていた―
真理子は、これまでの自分の行動を反省している。
―これからは、自分も母のように生きよう―
真理子は、母と出会う前に持っていた疑問が氷解し、さわやかな気分になった。
―血筋を追いかけるのではなくて、人間としての自立が大切であることを、母は身を持って教えてくれたのだ―
真理子にとって、父親の行方を追う理由はなくなったという思いで、真理子は、母で居てくれる菜穂子に感謝する。
真理子は自宅に戻って、改めて、自分もまた一人なのだということを感じた。帰宅を出迎えてくれる者の居ない家には空虚な風が肌に冷たく触れるだけである。猫のカーヤは獣医宅に預けてあるので、落ち着いたら連れ戻すことになっている。哲が居たら自分の帰りを待ちわびていただろうと勝手な想像をしてもいたが、それは即座に自分のなかで打ち消した。なんだか未練たらしい自分に気付いたからである。
母・菜穂子の家に居たのは一週間だった。その間に、菜穂子とした会話は仕事のことと食事や日常雑事のことぐらいで、身の上話は避けていた。
―意識的に過去を避けて、現在だけに生きよとしているのだわ、過去を白紙にして、その上に新しい絵を描こうとしている。これが、わたしのこれからの人生になる―
真理子はこの思いを胸に抱いて、自分を見詰めなおしている。そのためにも、母から学べるものがあるはずだと思うようになっていた。
―母は、わたしの将来について何も聞かない。独身で居るのか結婚するのかとか、普通の母親であれば尋ねるだろうことを、尋ねない。わたしが話す現在の仕事のことを熱心に聴いてくれるだけである。わたしは物足りない思いがしないでもないが、わたしの将来に干渉しない母の強さに抱かれているようだ―
真理子は一人ぼっちの部屋で、午後の紅茶を飲みながら、母との再会を反芻し、自分のこれからの生き方を母から教えられたという思いを胸にしまいこんで、自己分析をはじめている。
―わたしは、シングル・マザーの娘だと、友達が冷笑するように行った言葉に傷ついて、母に恨みを持って逆らってきたが、その真実を知った今では、母にすまないという気持がわたしを包んでいる。母はわたしの反抗に苦情を言うこともなく耐え忍んでくれていたのだ。それがわたしに対する母の愛情だったのだと、わたしは後悔している。血の通っていないわたしを実子として育ててくれたのに、わたしは血のつながりを信じて、母に逆らってきたし、実の父を捜そうとした。それに対して、母は何一つ意見を言わなかった。これまでのわたしの行動は、誤解に基づく反抗だったに過ぎない。それがわかった今、わたしは真空のなかにおかれている。どうすればいいのだろう―
進むべき方向性を見失ったように、真理子は茫然としている。自分では強く生きてきたつもりであったが、その基盤が崩れてしまったのである。
―わたしは、虚構の上に生きて来たのだわ。わたしが追い求めていた真実は、母の胸の中にあったが、それを母は明かしてくれない。だから、真実を想定することでしか生きてゆけない。祖母の「真理子さんは椎名と隆子の子だ」といった言葉のみが間接的な証言として残っているだけだが、この言葉は、祖母の思い違いだったと言われてしまえば、真実は霧の中に戻ってしまう。それでは、祖母の言葉を信じて来たことまでが無意味になる。わたしは、過去と決別するしかない。誰の子だということなんかにこだわらないで生きなさいと、母は無言でわたしに伝えている。戸籍上の「菜穂子の実子」ということで必要かつ十分な条件を満たしているのだから、これ以上のことを求めるのはばかげているのだわ―
真理子は、自分の心理に区切りを付ける必要を知った思いで、自分を引き立たせた。子猫のマヤがいなくなってから、幾年たったのだろう。遠い昔の様でもあるし、つい最近のことの様でもある。真理子は生活を落ち着かせるために、まず、カーヤを獣医宅から連れ戻した。
カーヤもおおきくなって、たくましい青年のように、重量感をましていた。