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色即是空

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「哲には、ずいぶんと世話になったよね。いつまでも哲に頼っていたら、わたしは再起できなくなると気付いたの。元気になったのをチャンスに、哲を自由にしてあげる。わたしは、カーヤを連れてゆくよ」
 真理子は一方的にしゃべって、結論を哲につたえているようだった。哲は、
「彩子さんに相談してからにしましょう」
と言うのが、やっとのことであった。真理子が口を挟ませないので、もっぱら聞き手に回っている。哲の心は波立っている。
「まるで会社の再生プランのようですね。古いものは切り捨てて立ち直るのですか?」
 哲は不満だった。
「そうかもしれないけれど、一人になりたいの。母の血が騒いでいるのじゃあないかしら」
 真理子はとぼけている。
「僕が邪魔になったというわけじゃないね」
 哲が詰問すると、真理子は顔に笑いを浮かべて、
「そういうことかなあ、見守り役はもう要らないから」
「仕事は一緒につづけるのでしょか。僕にも予定があるから」
「当然よ、ビジネスですもの」
 二人の会話はそこでとまった。哲のケイタイが鳴ったのである。電話は彩子からだった。哲が話した後に、真理子が出て、自分の決心を告げた。
「真理子は言い出したらあとにひかないのだから、好きなようにしなさいよ」
 彩子の声が伝わって来る。
「僕も東京へ帰るか」
 哲があきらめたように言った。
 真理子は渋谷には戻らなかった。これは哲に対する裏切りに等しいのだが、真理子は、一人でいたい思いに胸を押しつぶされていたので、哲の思いに配慮する心の余裕がなかった。真理子は出生の秘密を告げられたとき、声が出なくなった。その状態が、声を回復しても心を圧迫している。哲を見捨ててしまった後ろめたさが残っているのだが、真理子は自立の道を選択することにした。
―哲と私は実の姉弟だなんて、哲が知ったらどうしよう。異母姉弟だと思っている今のままにしておいたほうがいい。なんとなく距離が保てるから。もう、あの男も隆子も捜してもらいたくない。二人が両親の顔をして出てきたら、わたしは惨めになる。母だと信じてきた養母にもすまない。このまま菜穂子の実子でいよう―
 真理子は、自分の惨めさをかみ締めていた。母譲りの文筆の才能があると信じてきたことが完全に否定されたのだ。
―わたしが、血によりすがってきたのは、何だったのか。血のつながりのない菜穂子の実子という幻想に生きることしか残っていない。それならば、血への思いは捨てよう。二人の父と三人の母の子のように生きればいいことだ―
 真理子は自分を納得させるように、血の思いを捨てようとしている。
―彩子にだけは、本当のことを告げるべきだろうか。もしかして、祖母が、わたしの実母は隆子だと告げているかもしれない。それならば、わたしが黙っていることは、彩子への背信行為になるだろう―
 真理子は、彩子に告白すべきか否か迷っている。
―これからも彩子と付き合ってゆくのに、仮面はかぶりたくない。仮面だと彩子が知っていて、はがそうとしなければ、わたしは素直に生きていけない。彩子もわたしを信じなくなるだろう。欺瞞の付き合いなんて、悲惨な破滅に落ちるだけだわ。それ以上に、わたしが、私自身を信じられなくなるだろう。母のような潔さとはまったく違った卑屈な嘘を生きることになる―
 真理子は、頭を抱え込んで考えている。本当のことを言ったほうが良いのか、言わないほうが良いのか、自分自身の受けた衝撃の深さの押しつぶされようとしていた。        

          二
 真理子の転身は彩子にも伝えられた。彩子の反応は意外とあっさりしていたので真理子が拍子抜けしたほどである。
「真理子さえ、それでよければ、隆子さんは捜さないよ。本当のこと言ってくれたから、うれしいよ。これからも友達でいられるよね。哲君には、このことは言わないから、安心していいよ」
 真理子は、結局、だまっておれなくて、すべてを彩子に話したのである。
 これがきっかけになって、真理子は、これまでの憑き物が落ちたように、すっかり元気になった。胸のわだかまりが取れて、猫騒動以前の真理子に戻っていた。違っているのは、両親のことで悩むこともなくなっていたことである。真理子にとっては、長い旅の終わりが来たようであった。今となっては、自分の悩みの正体は、隠された真実にたどり着くまでの迷路を、出口を求めて探り歩くゲームのようだったと真理子は思った。そして真理子は、過去から開放された自分に、新しい生き方を教えてくれるのは、母の菜穂子であると悟ったのである。母がシングル・マザーを通したのは、自分を守り抜いてくれるためであったと思い知らされた。

 真理子が母・菜穂子を訪ねたのは、それから数日後で、京都の東山山麓にその家があった。真理子がここを訪ねるのははじめてである。紅葉の季節であったから、山麓一面は紅く染まって人を誘うような風情がある。
―母は、こんな閑静な処でくつろぐように生きている。文筆も昔のように多くはない。けれど、作品の味は深くなっている。流行作家だった頃の焦燥感はすっかり消えて、落ち着いた雰囲気がある―
 真理子は母の作品を思い浮かべながら家への道を歩んでいる。その作品は『落日抄』と表題されたエッセイである。これを真理子は新幹線の中で読みふけってきたのである。
―母に会えば、この作品のことから話を始めようか。いきなり身の上話になるようなことはいやだし、母も好まないだろう。母の作品をなかにおいて出会ったほうが気持の負担は軽いだろう―
 真理子は母との出会いをどう演出すべきかと思いをめぐらしていた。それは長く疎遠にしてきたことをつくろうための方便を見出すのにどうすればいいかという迷いである。この思案をやわらかく包むように紅葉の道が続いている。土がむき出しになった自然の道は、温かい感触を足裏に伝える。舗装された道の硬さとはまったく違った優しさが感じられる。
『落日抄』は、シングル・マザーとして生きてきた菜穂子自身の経験と回想を綴ったものである。真理子は、それを読むうちに、母の生い立ちが尋常でなかったことを知る。
 母は六歳のときに、両親が蒸発して、施設に引き取られた。その施設には孤児が収容されていて、養育係の職員が親代わりであった。そのときの職員であった女性が、母の成長に決定的な影響をあたえたらしい。
「『自分ひとりで生きるように、あなたは生まれたの。でも心配しないでいいのよ。神様がいつも守ってくださっているから』、この言葉を信じて、わたしは生きてきました」
 まだおさなかった母の心の支えは、ここにあったのかと真理子は、しみじみとおもった。
―その母が、わたしを育てたのは、どのような思いからだったのだろうか―
 真理子はそれを聞きたい気持に駆られている。しかし、それを母に聞いていいのか、母に会うまで決心がつかなかった。
 広い前庭がなだらかに玄関に向かっている石畳を踏んで、真理子は進んでいる。両脇には、杉,樫、檜などの喬木が並び、それを避けるように竹薮が庭の境界を造っている。
作品名:色即是空 作家名:佐武寛