白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~
嘉門はいつものように武家屋敷町を抜け、和泉橋を渡った。名もない川にかかる小さな橋を渡った途端に、静かな武家屋敷町から活気溢れる商人の町へと変わる。
いつも思うことだが、小さな橋一つで、全く別の世界から世界へと旅をしているような気になる。
そう、あの世である彼岸からこの世である此岸へと三途の川を死者が渡るというように。
嘉門はそんなことを考え、突如として己れの頭に浮かんだ禍々しい想いを振り払うかのように、烈しく首を振る。
何を不吉なことを。
あまりの馬鹿馬鹿しさに自分を嗤う。
橋を渡り終えても、しばらくはまだ静かな小道が続く。捨て子稲荷と称される小さな祠の前を通り、人気のない道を進んでゆくと、四ツ辻に至る。そこを曲がった先が町人町の目抜き通りになるのだ。
そして、嘉門の愛しい女が待つその場所もすぐ眼と鼻の先にある。
嘉門は懐手をして、悠然と道を歩く。角を曲がり、お都弥の待つ花やへと脚は自然と速くなった。
今日、お都弥と逢った後で屋敷に戻ったら、母にお都弥とのことを切り出すつもりでいた。
母のことだから、自分の思惑など、とうに知っているのかもしれない。それでも、良い。
今日こそは、あの母に宣言してみせる。
自分はもう、あなたの言いなりになる孝行息子ではないのだと。生涯の伴侶くらいは、自分の意思で選び、一生選んだ女一人を愛し守るのだと。
この愛を貫くためであれば、何もかもを棄てることも厭いはしない。それだけの覚悟をもって、立ち向かうつもりだ。
筆屋と仏具屋に挟まれた角に立った時、嘉門はふと違和感を憶えた。仏具屋の隣の花やの表には板戸がぴっちりと立てられ、何ものの侵入をも拒むかのように閉ざされていた。
「―!」
嘉門の顔からすうと色が失せていった。
嘉門はすぐさま、隣の仏具屋に飛び込んだ。
「おい、内儀」
花やに入り浸る中に、いつしか顔見知りになった仏具屋の内儀が奥から出てくる。
三十代半ばほどの、小柄で愛想の良い女だ。
「誰か、いるのか」
大声で呼ばわる嘉門に、内儀が大仰に耳を押さえた。
「そんなに破(や)れ鐘のようなどら声で怒鳴らなくっても、聞こえてますよ。よっく、聞こえてますとも。石澤のお殿さま」
「あれは、どういうことだ」
物凄い見幕の嘉門にも、内儀は少しも動じる風はない。大抵の人間であれば、長身で眼には鋭い光を宿した彼がひと睨みすれば、縮み上がるのだが、この内儀はつかみ所がないというのか、いつもにこにこと笑っているばかりだ。
「石澤さまがお訊ねになるのは、大方、花やさんのことでしょうねえ」
「判っているのなら、教えてくれ。何故、花やが閉まっているのだ? あれでは、まるで誰もおらぬようでは―」
そこで、嘉門はハッとしたように内儀を見た。
「そう、なのか。花やの者たちはいずこかに行ってしまったのか?」
嘉門の端整な顔が蒼褪めた。
必ず次に逢うときまでには白粉花を描いた絵蝋燭を嘉門のために用意すると約束したお都弥。
そうなのか、お都弥! そなたは、そんな女だったのか。約束を平気で破るような女だったというのか。それとも、俺が、この俺がそのような約束など守るに値しない男だと、そなたは思ったのか? 教えてくれ、お都弥。
信じられなかった。あのお都弥が、優しい女が約束を平気で反故にし、自分を棄てて去っていったとは。
到底、俄には信じがたい事実だった。
と、嘉門の眼の前に何かが差し出された。
絶望の底に真っ逆さまに突き落とされた嘉門が虚ろな視線を動かす。
眼前には、仏具屋の内儀の先刻までとは違った真剣な顔があった。
「これを花やのおかみさんから預かってるんですよ。ううん、もっと正しく言えば、おかみさんからじゃなくて、お都弥ちゃんからの預かり物ってことになるんでしょうがね」
嘉門は震える手でその小さな包みを受け取った。
黄色い布で丁寧にくるまれた包みを解くと、中から現れたのは、一本の絵蝋燭だった。
白粉花が繊細な筆致で描かれている。間違いなくお都弥の手になるものだ。
「これを、どうして」
嘉門が物問いたげな眼を向けると、内儀は眼をわずかにしばたたいた。
「お都弥ちゃん、もう長くはなかったんですよ。石澤さまと親しくなった時、医者から長くても半年、下手をすれば二、三ヵ月のものだって余命まで宣告されてたんです」
「そんなッ。俺は、俺は何も聞いてはおらぬ!」
噛みつくように言うと、内儀は眼を伏せた。
「言えるわけにないでしょ。石澤さま、お都弥ちゃんは本気で石澤さまに惚れてたんですよ? 惚れた男にそんな野暮なことは女なら、言えっこありませんよ。お都弥ちゃんの気持ちを察してやって下さいな。あの娘は最後まで、石澤さまに愛されたままで、幸せな女のままで逝きたかったんですよ。だから、言えなかった。自分の生命が残り少ないなんてことを言っちまって、折角築いてきた二人の世界や絆がこれまでと違ったものになるのが厭だったんですよ。だって、そうでしょ。お都弥ちゃんのその秘密を知って、石澤さまがこれまでと全く同じ平静でいられますか? あの娘はただ、惚れたお人と最後の瞬間までごく普通の恋人同士でいたかったんだと思いますけどね、私は」
「何の病だったのだ―?」
嘉門が力なく問うと、内儀は眼を開いて緩く首を振った。
「知りません。花やさんところが何もおっしゃらなかったから。無理に訊くようなことでもありませんでしたしね。でも、お都弥ちゃん自身が言ってました。何でも内臓が腫れて、腐ってゆく厄介な病だって。ここに来てから一年ほどして、判ったみたいですよ。あんな良い娘に、仏さまも酷いことをなさるもんですね。清平衛さんとおきよさんは店を畳んで、上方の方に行くって、三日前に出ていきました。端から、お都弥ちゃんにもしものことがあったときには、ここを引き払うつもりでいたようですよ。あの二人はお都弥ちゃんを本当の娘のように可愛がってましたからねえ、あの娘の想い出のつまった家にこれから先もずっと住み続けるのは辛くって仕様がないって、おきよさんが零してました」
「それで、花やのおきよがこれを俺に?」
嘉門の問いに、内儀は頷いた。
「お都弥ちゃんが亡くなる前まで力を振り絞って描いた絵蝋燭。石澤のお殿さまにきっと、きっと渡して欲しいって言い残して息を引き取ったそうです」
―今度、逢うときまでには描いて貰えるか。
―そう―ですね。今度、お逢いするときまでに。
―約束だ、きっとだぞ。
――はい、きっと。
何故、どうして、気付いてやれなかったのだろう。あのときのお都弥は確かにいつもとは違っていた。何かに耐えるような、痛みを堪(こら)えるような表情で嘉門を見つめていた。
俺は、馬鹿だ、大馬鹿だ。惚れた女の心の叫びや痛みにすら、気付いてやれなかった。
嘉門は我と我が身を責めた。
大声で喚きながら、何もかもをぶち壊してしまいたい。お都弥のいないこの世界になんて、何の意味がある?
どうしてなんだ、お都弥。
あれほど約束したじゃないか。
何故、俺を一人にする。
自分だけ、一人で俺の手の届かない世界に旅立ってしまうんだ。
お前のいないこの世は、あまりにも淋しすぎる。侘びしすぎる。
作品名:白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~ 作家名:東 めぐみ