白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~
お前なしで、俺にどうやって生きてゆけと言うんだ、なあ、お都弥、教えてくれ。
「それでもね。石澤のお殿さま。お都弥ちゃんは幸せだったと思いますよ。明日をも知れぬ病気にかかって、憐れまれる病人なんかじゃなくて、元気なままで、石澤さまに愛されたまま、ただの女で逝きたい―、それはお都弥ちゃんなりの女の意地でもあったでしょうよ。その女の意地が貫き通せたんだから、あの娘(こ)はけして不幸じゃなかったと私は思いますがねえ」
嘉門はゆるゆると立ち上がった。
内儀が気遣わしげに見守る中、緩慢な動作で外へと歩き出す。
そうだった、お都弥。お前は、心根の優しい女だった。
―自分に起こった不幸の数をかぞえていたら、それこそキリがありませんよ。悪いことより、良いことの方を数えて、明日はまた一つ良いことが増えれば良いなと仏さまにお願いするんです。そうやって一日、一日、大切に生きてゆけば、いつかきっと良いことが本当に起こるような気がして。
最後に逢った日、お都弥が嘉門に言った言葉が今更ながらに甦る。
本当にそうだったのだろう。お都弥は天がもたらした苛酷な運命を嘆くでもなく恨むでもなく、残された一日一日に感謝し、大切にして懸命に生きようとしていたはずだ。
嘉門はそのいじらしい心根を最後まで理解してやれなかった。
今になって、嘉門は、お都弥の膚の白さが常人よりも際立っていたことを思い出していた。あれは生まれつきの膚の白さもあったろうが、もしかしたら、病で血が薄くなっていたせいなのかもしれない。殊に最近は白いというのを通り越して、蒼白くさえ見えることもあった。
あれも、すべては重い病のせいであったというのか。
―迂闊だった。嘉門は今ほど己れの鈍さを後悔したことはなかった。
それでも、お都弥は最後まで誰を恨むこともなく、微笑んでいた。己れが背負い込んだ不幸を嘆くよりも、得た数少ない幸福に感謝しながら精一杯、残り少ない生命の焔を燃やし続けたのだ。
「俺もそうやって生きてみるとするか、なあ、お都弥よ」
だが、お前を失って、何の良いことがあるものか。
―俺には、本当にお前がすべてだったんだ。
はにかんだような笑顔、時折見せた淋しげな笑顔、お都弥の様々な顔が風車のように脳裡でぐるぐると回る。
お前の言うように、一日一日大切に生きてゆけば、いつか本当に良いことが起こる―、そんなものなのか?
嘉門は花やの前に佇み、固く閉ざされたままの板戸を眺めながら、心の中でお都弥に問いかける。
茫然と立ち尽くす嘉門の傍らを、大八車を引いた男が勢いよく走りすぎてゆく。
風呂敷包みを持った商家の内儀らしい女が嘉門をちらりと見て、通り過ぎていった。
そんな通行人の視線さえ嘉門には眼に入らない。
―一日一日大切に生きてゆけば、いつか本当に良いことが起こると都弥は信じております。―嘉門さま、都弥も嘉門さまを心よりお慕いしておりました。どうか、私がこの世から消えても、嘉門さまは嘉門さまらしく、お強く凜として前だけを向いてお歩きになって下さいませ。都弥は嘉門さまにお逢いできて、最後に幸せな女の花を咲かせることができたのです。ですから、どうかお哀しみにならないで。
女の想いが、魂の叫びが一本の蝋燭から伝わってくるようだ。
嘉門はお都弥が最後の力を振り絞って描いた絵蝋燭を握りしめ、ゆっくりと歩き始めた。
前だけを見つめて進む男の眼に光るものがあった。
男の涙は、早春の風に儚く溶けて散った。
(了)
作品名:白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~ 作家名:東 めぐみ