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白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~

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 その後、残された娘がどうなったかまでは知らなかったが―。数代続いた老舗の突然の店じまいは、江戸でも結構な噂になったものだった。だが、その忘れ形見である娘の消息など気に掛ける者は誰一人としていなかったのだ。
「私の母の姉がこの花やの内儀(おかみ)です。両親があい次いで亡くなった時、私はまだ十四でした。行き場のない私を、伯母さんと伯父さんが引き取ってくれたんです。丁度子どもがいなかったから、養女にするって。嘉門さまと初めてお逢いした二年半前のあの雨の日は、私はたまたま伯母さんの家―ここに遊びに来ていて、店番をしておりました」
 今のお都弥の話で、欠けた皿のその肝心の欠けた部分が漸く見つかったような気がした。これで、すべてがおさまるべき場所におさまり、一枚の皿が完成したのだ。
 二年半前に突如としてこの店先に現れた美しい娘。幾ら逢いたいと思っても、二度と逢うことはなかったのに、娘は半年後に再び、店先に座るようになり、以後はずっと、ここにいた―。
 お都弥の父親が万葉集という難しい歌集を愛読していたということからも、お都弥がそれ相応の財力と教養を併せ持つ家の娘だとは察せられたものの、それが武家ならばともかく町人ともなれば、それこそ大店の娘でなければ叶わぬことだと嘉門は考えたこともあった。
 が、そんな大店の娘が何故、町外れの小さな絵蝋燭屋の店先で毎日、店番をしているのかが疑問だった。知りたいと思いながらも、訊けなかったのは、やはり、この少女の触れられたくはない部分に踏み込んでしまう恐れがあると無意識に思ってしまったからに相違ない。
 しかし、それは大きな間違いというものだった。仮にも妻にと望むほどの女であれば、その何もかもを知り、なおかつ受け止めてやらなければならない。
 嘉門は時折見かけるこの店の主夫婦を思い浮かべた。言われてみれば、四十近い内儀の方は、どことはなしにお都弥に面立ちが似ているかもしれない。
 細面の美人で、愛らしいのに、どこか淋しげな容貌が似ていた。
「そう、だったのか。お都弥は辛い想いをしてきたんだな」
 それは、嘉門の口からひとりでに洩れた言葉だった。
 お都弥はふんわりとした笑みを浮かべた。
「そんなことはありません。伯母さんも伯父さんも、私を娘のように可愛がってくれます。嘉門さま、私の父は少しですが、借金を残していたのです。親戚のお店(たな)の方たちがすべて返済して下さいましたから、今、私はこうしてここにいられるのです。もしかしたら、私はここではなくて、吉原か、岡場所のような遊廓に身を沈めなくてはならなかったかもしれない。それを思えば、私は本当に果報者だと思います。自分に起こった不幸の数をかぞえていたら、それこそキリがありませんよ。悪いことより、良いことの方を数えて、明日はまた一つ良いことが増えれば良いなと仏さまにお願いするんです。そうやって一日、一日、大切に生きてゆけば、いつかきっと良いことが本当に起こるような気がして」
 その言葉は、嘉門の心を打った。
「都弥。俺の妻になってはくれぬか。後悔はさせぬように努力する。二人で幸せになろう。そなたの申すように、二人で良いことが起こるように祈りながら生きてゆくんだ」
「―嘉門さま」
 お都弥の大きな眼が一杯に見開かれる。
 その瞳に、見る間に涙が盛り上がった。
「何故、泣く。お都弥は俺の嫁さんになるのは厭か?」
 嘉門の問いに、お都弥ははにかんだ笑みを見せた。
「いつかも申し上げたではございませんか。女は哀しいときだけではなく嬉しいときも泣くのだと」
「ならば、この話、お都弥が承知してくれたと俺は思うても良いのか」
 勢い込む嘉門に、お都弥は頬を染めながら、そっと頷いた。
「嘉門さま、お都弥は本当に嬉しうございます。数ならぬ身に、そのようなお言葉を頂いただけで、十分すぎるほどにございます。本当に、いつ死んでも良いくらいに幸せ」
「何を馬鹿なことを申しているのだ。お都弥はこれから俺の妻になって、幸せにならねばならぬ。勝手に死んだりするのは俺が許さぬぞ、良いな」
 嘉門は半ば本気、半ば冗談でお都弥を軽く睨む。
 お都弥は、怒られているというのに、何故かいっそう嬉しげに微笑んだ。
 その日、嘉門は母のためにと、お都弥が勧めてくれた椿の絵蝋燭を一本買い求めた。
 あの身分がすべてという母を説得するのは容易なことではあるまい。最悪、嘉門は石澤の家名をも何もかも棄てねばならないだろう。
 だが、それでも良いと嘉門は考えていた。
 たとえ、何を犠牲にし、引き替えにしたとしても、お都弥を手放すよりは、はるかにマシだ。
 そして、この時、嘉門はお都弥と一つの約束を交わした。
「もうすぐ白粉花の咲く季節になるな。都弥、一つだけ俺の我が儘をきいてくれるか」
 別れ際、ふと呟いた嘉門に、お都弥は眼を瞠った。
「白粉花の絵を描いた蝋燭を俺のために作ってくれ」
 短い静寂は、お都弥の躊躇いを示しているようにも思えた。
 が、お都弥は微笑んで頷いた。
「判りました。お約束いたします」
「いつ頃、描いて貰えるかな」
 そのときのお都弥の様子が、表情が妙だと何故、気付かなかったのか。後になって、嘉門はどれほど己れの迂闊さを責めたかしれない。
「今度、逢うときまでには描いて貰えるか」
 重ねて問う嘉門に、お都弥は何かに耐えるような表情を向けていた。
「そう―ですね。今度、お逢いするときまでに」
「約束だ、きっとだぞ」
「―はい、きっと」
 でも、そのときのお都弥はもう常と変わらぬ優しい花のような笑みを湛えていて。
 嘉門は、何も気付いてやることはできなかった。
 長話をしている中に、いつしか店の前の白っぽい道が夕陽の色に照らされていた。
 いつものように別れの挨拶をして、お都弥に背を向けて和泉橋の方へと歩き出した時、嘉門はふと背後を振り返った。
「お都弥」
「はい?」
 店先に座ったお都弥が何故か、いつもより小さく見えた。夕陽に照らされた横顔は変わらず可愛らしくて、嘉門を惹きつけてやまないのに、どこか淋しげだ。
 茜色に染まった横顔が透き通るようだ。
 まるで、夕陽に透けて、今にも光に溶け込んで、お都弥そのものが消えてしまいそうな錯覚さえ憶えて、嘉門は焦った。
「お都弥!」
 今にも消えようとするお都弥を現世(うつしよ)に繋ぎ止めようとするかのように、大声で名を呼ぶ。
 昔から言霊(ことだま)には霊力、不思議な力が宿っているというから、その力で愛する女の魂を永遠に縛り、自分の許に繋ぎ止め、とどめておきたいと本気で考えてしまった。
「はい」
 お都弥は嘉門の心など知らぬげに、婉然と微笑んでいる。
 そのお都弥の余裕のある表情で、嘉門の不安も消えた。
 何を馬鹿な、お都弥が俺を残してどこかに行ったりするものか。
 何より、誰より優しい女だ。
 人を裏切ることなど、思いもしないだろう。
 嘉門はお都弥に何でもないというように笑って首を振り、夕陽に照らされた道をゆっくりと歩いていった。
 その時、お都弥が嘉門の広い背中を永遠に心に刻み込むかのようにじいっと眺めているのに気付きもしないで―。


 その十日後。