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白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~

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 今朝、屋敷を出る間際、嘉門は母祥月院に呼び止められた。
―殿、剣のご鍛錬に勤しまれるのは大変結構なことにございますが、最近、良からぬ噂が立っております。
―は、良からぬ噂にございますか?
 嘉門は本当に何のことか皆目判らなかった。
 祥月院は息子を冷めた眼で見据えた。
―殿が町方の娘にご執心との噂にございますよ。
 刹那、嘉門は身体中の血が音を立てて逆流するかのような気持ちになった。
 何故、母がお都弥のことを知っている―?
 祥月院は息子の心などお見通しといった様子で続ける。
―あまりこの母を甘くご覧にならないで下さりませ。噂と申すものは、屋敷の奥にいても、自ずと耳に入ってくるものです。しかも、それが悪しきものであればあるほどに、人の口に戸は立てられぬと申しますから。
 誰か、母の意を受けた者が嘉門の身辺を見張っているのだ、その時、嘉門は己れが母の手の内で躍らされていることに、初めて気付いた。
―悪は千里を走ると申しますよ。
 母が言い添えたひと言が、嘉門を激怒させた。
―母上、お言葉にはございますが、悪とはいかなる意味にございましょう。私がお都弥と親しくしておることが、何ゆえ、悪しきことになるのでございますか?
 激昂する嘉門を、祥月院は憐れむかのような眼で見て言った。
―殿はそのお歳になられながら、いまだに何もお判りになられてはおらぬ。良ろしうございますか、殿はこの名門石澤家のご当主。目下のところ、松平の伯父上の仲立ちで京の三条家の姫とのご縁談も進んでおるこの大切なるときに、町方の娘なぞと戯れておいでとは、あまりにご自身のお立場というものをご存じない。もう少し、ご自重あそばせ。
 その言葉で、嘉門の中の何かがプツリと切れた。
―母上、その三条家の姫との縁談と申すのは、いかなることか。この私の方こそがお伺いいたしとうございます。私は、そのような話、一切お聞きいたしてはおりませぬぞ。
 松平の伯父上というのは、母方の伯父、つまり、現松平家の当主である親矩(ちかのり)だ。親矩はは現在、筆頭老中の座にある。その権力はかつての父親嘉を凌ぐともいわれ、将軍のお憶えもめでたく、時の権力者として時めいていた。
―そなたが一向にその気にならぬゆえ、私どもでお相手をお探しすることにしたのです。三条藤原家といえば、代々従三位権中納言に任ぜられる由緒ある公卿、その姫君を当家に正室として迎えられるとは、名誉の極みではありませぬか。これもそなたを可愛いと思う伯父上のお心の賜―。
 だが、嘉門は母に皆まで言わせなかった。
―冗談ではないッ! 母上。私は、あなたや伯父上の傀儡でも操り人形でもございませぬぞ。なまじ家柄と気位ばかり高い女を嫁に迎えれば、一生の不幸だとこの私、父上の積年のご苦労を見て、厭というほど肝に銘じておりますれば、そのような縁組はひらにご容赦願い上げる。
 刹那、母の美しい面が引きつるのを、嘉門は確かに見た。
 そのまま逃れるように屋敷を飛び出してきたが、後味の悪さは募るばかりであった。
 父の不幸が母との結婚に起因したのは紛れもない事実だ。が、今になって、そのことで母を責めたとて、何になろう。
 母は思えば、不器用な女なのだ。父を愛しながらも、気位の高さゆえに素直になれず、己れの感情表現が上手くできなかった。また、そんな母を愛せず、他の女に心の安らぎを求めた父をも責めることはできまい。
 なのに、母を心ない言葉で罵倒してしまった。父にも捨て置かれた哀れな母にとって、息子の自分だけがたった一つの生き甲斐であるのに―。
 だからこそ嘉門もこれまでは母の望む従順な孝行息子を演じてきたけれど、今日だけは別だった。お都弥との恋を悪しきものだと決めつけられ、あまつさえ、知らぬ間に縁談を進められていたことを知り、カッとなってしまったのだ。
「お都弥、今日、俺は屋敷を出る前に、母上に酷いことを言ってしまった。俺は時々、母上という人が判らなくなるのだ。俺のことを可愛がってはくれるが、その優しさが時に疎ましく思えてしまう。それに、母上は俺以外の者には冷たい。話したことがなかったかもしれぬが、俺には腹違いの姉がいた。二つ違いの優しい姉上であったが、俺が十一の歳に亡くなった。俺の母は、その腹違いの娘である姉にはとことん冷淡で、そのために姉上は母上にいびり殺されたのだと屋敷内ではいまだにいわれている。俺には優しい母なのに、何ゆえ、他の者に対してはそのように夜叉のようになるのだろうか」
 お都弥は嘉門の話にじっと聞き入っていたかと思うと、控えめに応えた。
「母上さまがそれだけ嘉門さまを大切に思ってらっしゃるのですわ。―この例えが適当かどうかは判りませんけれど、動物の親は子を守ろうとする時、自分に近づいてくるものにはすべて警戒心をむき出しにして敵を追い払おうとします。母上さまがお変わりになるのも、嘉門さまを守ろうとするその親としてのお心にございましょう。でも、嘉門さまにもそのようにお優しいのですもの、お母上さまは本当は冷たい方ではなくて、お心の温かな人でございますよ」
 考えながら、一つ一つ言葉を選んで話す態度は、お都弥らしい思慮深さと優しさを思わせる。
「―そなたこそ心優しきことを申すのだな」
 嘉門はお都弥を眩しげに見つめた。
「誰にも話したことのない内輪の話だ。それにしても、誰にも話したことのないのに、何ゆえ、そなたにこのような話をしたのであろうな」
 呟きながらも、嘉門は既にその応えを得ていた。
 優しいお都弥。他人の痛みを我が痛みのように感じのことのできる稀有な娘だ。
 多分、嘉門の惹かれているのは、お都弥の外見の美しさや可憐さよりも、この優しさの方なのだろう。何より、一緒にいて安らげる。
 この時、嘉門の心は、はっきりと決まった。
 お都弥を妻にしたい。
 自分の不幸を嘆くよりも、他人の痛みを理解しようとし、自らの宿命を従容として受け容れつつも、凛として前だけを見つめ真摯に生きようとする少女。その生き方に、考え方に惚れた。
「そなたの父母は―」
 そこまで言いかけて、嘉門はハッとした。
 生涯を共にする伴侶にと望みながら、嘉門は、まだこの少女のことを何も知らない。
 知り合ってふた月、十日に一度、立ち話をする程度の間柄にすぎなかったのだ。
 嘉門は俄に焦りにも似た想いを感じた。
 と、お都弥が微笑んだ。たまにお都弥が見せる、少し哀しげな微笑だ。
「私の父と母は亡くなりました。亡くなったのは二年前、私の実家は青海屋(おうみや)といって、日本橋で海産物問屋を営んでおりました」
 青海屋といえば、江戸でも結構名の通った老舗であった。確か初代は北陸の海辺の寒村から出てきて、一代で店を興したとか。その屋号もその出身地にちなんでいると聞いたことがある。
 青海屋は二年前、主人夫妻が立て続けに流行病(はやりやまい)で亡くなり、店を閉めたが、まさか、お都弥がその亡くなった主夫婦の残した一人娘であったとは!
 青海屋夫妻の娘はまだ当時、十四、少々のの借財もあって店を閉めざるを得ない仕儀となった。借金は身内の者たちが集まって返済はしたが、到底、店を続けてゆけるような状態ではなかったのだ。