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白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~

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 嘉門は早口でまくし立てると、懐から小さな櫛を取り出した。朱塗りの櫛は町人町の小間物屋で買い求めたものだ。紅い地に白粉花が小さく描かれている。さして高価なものではない。屋敷に出入りしている御用商人に適当な品を見繕わせることも考えたが、それはこの際、止めておいた。
 女物―しかも若い娘の好みそうな櫛なぞを買い求めるところを母に見つかれば、何と言われるか判ったものではない。
「これは、いつぞやの礼だ」
 無造作に差し出した櫛を、お都弥は両手で押し頂くように受け取った。
「このような高価なものを頂いて、本当によろしいのでございますか」
「構わぬ」
 嘉門は照れ隠しもあって、やや憮然として呟くと、お都弥の手から櫛を奪うように取り、手ずからその髪に挿してやった。
「よく―似合うと思うぞ」
 ふいに、お都弥の黒い瞳から大粒の涙が零れ落ち、嘉門を慌てさせた。
「どうした、やはり、迷惑だったのか」
 咳き込んで訊ねると、お都弥は首を振った。
「違います。これは、嬉し涙です。このようなものを頂けるなんて、考えたこともなかったので、私、嬉しくて」
「なに、女というものは面妖だな。哀しいときだけでなく、嬉しいときにも涙が出るのか!」
 嘉門は唸った。十七になったとはいえ、嘉門は同じ歳頃の男に比べると、随分と奥手だ。道場に通っているのは同じ旗本の息子だけでなく町人、例えば大店の跡取り息子などもいる。生来、身分とかいったものにあまり拘らない嘉門は誰とでも意気投合すれば隔てなく付き合っていた。
 そういった友人たちとたまに呑みにゆく時、話はどこそこの遊廓には良い女がいるとか、そういった話題で盛り上がることも再々だが、嘉門は、そんな話になると、いつも黙って一人で盃を傾けているにすぎなかった。
 女に惚れたこともなければ、遊廓に行ったこともないのだ。もっとも、いまだに女を知らぬなぞと悪友どもに知られた暁には、どれだけ冷やかされるか判ったものではない。ゆえに、絶対に知られぬようにはふるまっているつもりだが、多分、嘉門がいまだに女を抱いたこともないのは誰もが周知のことだろう。悪友たちにも、気付いていても知らぬふりをする情けくらいはある。
 従って、嘉門はこの歳になっても、女という生きものの生態については殆ど未知である。何をどう言えば歓ぶのかといったことも判らないし、女が泣くとなれば、哀しいときか厭なとき、辛いことがあったときと相場が決まっているとこれまでは信じてきたのだ。
「こんな時、俺はどう言えば良いのかはよく判らぬが、お都弥が泣いたら、俺はどうしたら良いか判らなくなってしまう。だから、泣くのは止めて、笑顔を見せてはくれぬか。―俺はお都弥の笑った顔が好きだ」
「―」
 お都弥の白い頬が紅くなった。
 そこで、嘉門は自分が何とも大胆な発言をしてしまったことに気付く。
「白粉花の栞を持っていたほどだから、彼(か)の花が好きなのだろうと勝手に見当をつけたのだが、気に入って貰えただろうか」
 その場の気まずさをごまかすために、全く別の話題をふると、お都弥もまたホッとしたような表情で頷いた。
「はい、本当にありがとうございます。一生の宝物にします」
 心底からの嬉しげな顔に、嘉門の心も躍った。お都弥の笑顔を見ると、いつも心が温かなもので満たされてゆく。
 この時、嘉門は漠然と考えた。
 いつもこうやって、お都弥の笑顔を見ていられたなら―、どんなに良いだろう。これからの幾年月、いや、ずっとずっと、お都弥が自分の傍にいて、こうやって微笑みかけてくれたなら。
「今日は、これから道場の方へ行かれるのですね」
 道場の行き帰りにここを通るのだとは、以前に話している。
 お都弥の声に、嘉門は我に返った。
 どうやら、自分でも刻の経つのを忘れていたようで、束の間の語らいのはずが随分と刻を過ごしてまったようだった。
「申し訳ない、また、次の機会に」
 嘉門は小さく頭を下げ、踵を返した。
 知らぬ中に小走りに駆けながら、心では道場でひと汗流しての帰りには、またあのお都弥の笑顔を見られることに心躍らせていた。

 それからふた月が経った。
 嘉門は十日に一度、町の道場に通っている。その行き帰りのどちらかには必ず花やに立ち止まり、お都弥としばらく言葉を交わすのが嘉門の日課となった。
 暦は既に弥生に入り、日中は随分と春めいてきた。それもそのはずで、あとひと月も経たぬ中に、桜の花が咲く。嘉門の一年で最も好きな季節がやって来るかと思うと、心も自ずと弾む。
 むろん、このふた月ほど、嘉門の機嫌が良いのは何もそれだけではない。その原因は言わずと知れた―お都弥の存在だった。
 お都弥の優しさは、嘉門の心まで癒やしてくれるようだ。お都弥の何ものかを包み込むような笑顔を見ていると、嘉門は自分がこの世のあらゆる枷から解き放たれて、自由になれるような気がしてくる。どんなに苛立っていても、厭なことがあってくさくさしていても、不思議と波立った心が静まってくる。
 ところが、である。
 今日の嘉門は不機嫌だった。が、道場で思いきり剣を振り回し、花やの前まで帰ってくると、いつしか心が嘘のように凪いでくるのが自分でも判った。
 嘉門の顔を認めたお都弥の表情が、花がほころぶようにやわかくなる。
 嘉門の想い人は、今日も同じ場所に座っていた。
「今日は絵蝋燭を一つ貰えぬか」
 嘉門が珍しく店の中にまで入ってきたのを見て、お都弥は眼を見開いた。
「はい、どのようなものをお探しでございますか?」
 嘉門がわざとらしくコホンと咳払いをする。
「女人に贈ろうと思うのだ」
 そのなにげない言葉に、お都弥の顔が心なしか翳った。嘉門がまたしてもの失言に狼狽える。
「違う、違うぞ。女というのは、俺の母のことだ。断じて、他の女ではない。第一、お都弥以外の女に俺が贈物なぞするわけがない」
 ―多分、お都弥も自分のことを好きでいてくれるのではないか。流石にこういったことには鈍い嘉門も、このふた月ほどの間で、お都弥の自分に対する気持ちにも少しは自信が持てるようになっていた。
 何より、嘉門を見つめるときのお都弥の嬉しげな表情が彼女の気持ちを物語っている―と、自分では自惚れていた。
 お都弥は傍の箱から数本の絵蝋燭を手に取った。
「お母上さまでしたら、このようなものがよろしいのではないでしょうか」
 お都弥がはそれらの蝋燭を並べて見せる。
 紅い椿、薄紅色の桜、黄金色の山吹の花、更に紅白の睡蓮が眼の前で絢爛と咲き誇っている。
「凄いものだな、これを全部、そなたが描いたのか?」
 嘉門が感嘆の声を洩らす。
 この花やの蝋燭の絵の殆どは、今はお都弥が描いているのだという。置いてある品はすべて絵蝋燭で、描かれているのは花ばかりだ。花やという店の名の由来でもある。
「はい、見よう見真似で始めてまだやっと二年ですから、拙くて、これで売り物になるのかどうか自分ではいつも心配しながら描いているんですよ」
 はにかんだように話す顔は愛らしい。
 こんな時、嘉門はお都弥を抱きしめてやりたいと思わずにはいられなかった。
 そうなのだ、嘉門の今日の不機嫌な原因もここにあった。