小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~

INDEX|4ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

「は、恥ずかしくなんかないぞ。俺が知りたいゆえ教えてくれと頼むだから、そなたは悪くはない。い、いや、しかし、そなたがどうしても気が進まぬというのであれば、無理に訊き出そうとまでは思わぬが」
 何故か嘉門までがしどろもどろになりながら言うと、娘は笑った。
「万葉集ですわ」
 持っていた本を差し出され、嘉門は無意識の中に両手を差しのべていた。
「万―葉集」
 嘉門は今度は羞恥心で頬が熱くなった。
 恥ずかしいことに、耳にしたことはあっても、読んだことなぞ一度もない。
 恥ずかしさのあまり、娘の顔をまともに見られず、視線を下に向けると、書物の丁度開かれた部分が眼に入った。
「忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで」
 その眼に入った文章を呟く。
「これは、何を書いているのだろうか。恥ずかしいが、俺には皆目判らぬ。何かの歌―和歌であろうことくらいは察しがつくが」
 嘉門が自己嫌悪に浸りながら言うと、娘が涼やかな声で応える。
「恋の歌です。ひたむきな恋心を一生懸命隠していたのに、いつのまにか、その恋心が顔色や表情にまで出るようになってしまい、他の人からどうしたのかと訊ねられるようになった―、と、そんな意味でしょうか」
「―」
 娘の説明に、更に嘉門の身体がカッと熱くなった。
 まるで、自分の心を見透かされていたように、娘に真っ向から言い当てられたように思えたからだ。
 ここに至って、嘉門は、もしかして娘に対するこの想いが恋というものではないかと訝しみ始めた。
 今の自分はさぞかし無様そのものに違いない。惚れた女の前で我を失うほど狼狽え動揺し、自分が何を喋っているのかすら自覚できない有り様だ。
「そ、そうなのか。よく判った」
 嘉門は這々の体で応え、くるりと背を向けた。呆気に取られている娘を後に、直立不動で歩いてゆく。まさか自分が今、両手、両脚を同時に動かしているという実に珍妙、かつ器用な歩き方をしていることなぞ、当の嘉門は知りもしなかった―。
 極度の緊張がなしたものだったが、屋敷に帰ってから、嘉門は何度、その日の自分の情けない姿を思い出して歯がみしたかしれない。
 花やの店先に座っていた娘の名はすぐに知れた。もっとも、道場に通う仲間連中に訊いたところ、さんざん冷やかされるという要らぬおまけつきではあったが。
―花やのあの可愛い娘か、あれは、確か、お都(つ)弥(や)という名だったと思うぞ。さては、嘉門、そちはお都弥ちゃんに惚れたな。
―剣にしか興味のないお前が女に興味を持つなんぞ、紅い雪が降る。だが、お前、お都弥ちゃんをひそかに狙ってる奴は結構多いんだぜ。
 と、やんややんやとはやしたてられ、嘉門はこれまた逃げるように道場を飛び出した。
 どうやら、他の仲間は、お都弥の脚が不自由なことは知らぬようであった。
 嘉門は何故かこのときは、誰も知らぬお都弥の秘密を自分だけが知っているような気がして、ひそかに悦に入ったものだった。むろん、お都弥の不幸に拘わることだけに、彼女には申し訳ないことだとは思いながらではあったが―。

     【弐】

 お都弥と初めて話をした十日後、嘉門は再び花やの前を通った。その日は道場に赴く途中を立ち寄った。和泉橋町を抜けて和泉橋を渡り、町人町に入る。通い慣れたいつもの道が何倍も長く果てしないものに思えた。
 お都弥は、やはり、嘉門に傘と手ぬぐいを貸してくれた女だった。あの涼やかな声を聞いた刹那、この女だという確信が持てた。
 十日前はすっかり舞い上がってしまって、傘のことを訊ねる余裕がなかったけれど、今日はちゃんと傘と手ぬぐいも持参している。
 それにしても、先日のあの去り様はみっともないことこの上なかった。あの醜態でお都弥が自分のことを何と思っているかと想像しただけで、気が重くなり、脚取りまでが重くなる。
 今日ばかりは名誉挽回といきたかったが、どうなるかは神仏のみぞ知るといった案配で、今回も自信はない嘉門であった。
「先日は失礼した」
 と、またしても何の変哲もない科白を繰り出しながら、嘉門は花やの軒先で立ち止まる。
「いえ、私の方こそ先日はご無礼いたしました」
 お都弥が消え入りそうな声で返す。
 嘉門はここぞとばかりに己れを鼓舞した。
「いつぞや借りた傘と手ぬぐいを返しに参った。先日はあの折の礼を申すことも失念しておった次第」
 刹那、沈んでいるかに見えたお都弥の顔が輝いた。
「やはり、あなたさまは、あのときのお武家さまでございましたか。背格好が似ておいででしたゆえ、もしやと思いましたが、不躾にお訊ねするのも失礼かと思って、お訊ねできませんでした」
「あ、あの折はそなたの親切で助かった。先日、まず礼を述べるべきであったのに、済まぬ」
「いいえ、私はあなたさまにまたこうしてお逢いできただけで嬉しうございます」
「えっ」
 嘉門が思わずお都弥の顔を見ると、お都弥は頬を染めてうつむいた。
「も、申し訳ございません。私ったら、はしたないことを。それに、先日、お武家さまがお怒りになってお帰りあそばされたので、心配していたのです。初対面も同様のお方に、恋の歌について賢しげにご説明するなぞ、さぞはしたない女だとあなたさまがお思いになったのではないかと案じておりました。もう二度とおいでになっては下さらぬのではないか、私を見ても、声をかけては頂けないのではないかと、そればかり考えておりました」
「―そんなことはない!」
 予想外に大声で叫んでしまって、嘉門は、しまったと口を手で押さえる。
「私の父が万葉集を好んでおりましたもので、私も幼い頃から親しんで育ちました。町人風情が分不相応とお思いになるかもしれませんが」
 お都弥は微笑むと、差し出された傘と手ぬぐいを受け取った。
「あなたさまと初めてお逢いしたのは、正確には二年半前のあの雨の日なのですね。私はあなたさまの後ろ姿しか拝見したことはないのに、何故か、その後ろ姿が忘れられませんでした。背の低い私から見れば、愕くほど上背のあるお方だと思ったのを、つい昨日のことのように憶えております」
「では、何故、あの時、姿を消したのだ? 俺が礼を言おうと振り返った時、既にそなたは店の奥へ引っ込んでしまっていたではないか」
 幾分咎めるような口調になってしまったのは、この際、致し方ないだろう。
 あれ以来、嘉門だって、お都弥のことを忘れたことはなかったのだ。あのときの娘がお都弥ではないかと見当をつけつつも、直接訊ねる勇気も持てずに、ずっと悶々としていた。
 お都弥はそのときだけ、また哀しげに微笑んだ。
「私はご覧のとおりの不具(かたわ)者です。お武家さまはひとめ見て、ご身分の高いお侍であることは私にもすぐに判りました。こんな私を見て、あなたさまが何と思し召されるかと考えただけで、怖くなってしまったのです」
「そんな、そんなことはないぞ。お都弥は誰よりも、俺が知っているどんな女よりもきれいだ。それに、心根も優しい。姿形だけでなく、心もきれいな女だと俺は思う。もっと自信を持て」