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火焔の月~淀どの問わず語り・落城秘話~

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 男はしゃがみ込むと、茶々と同じ目線になった。
「どうなさいました。今にも泣きそうなお顔をなさっておいでですぞ?」
 不思議なことに、この猿に似た男には、茶々はすべてのことを洗いざらい話しても良いような気がした。何の根拠もないにも拘わらず、この男になら、自分は悪くないのだと訴えても良いと思えたのである。
「―初が」
 言いかけたその時、城の方から初の乳母が息せききって駆けてくるのが見えた。
 茶々は口をつぐみ、唇を痛いほど噛みしめた。どうせ、また同じことの繰り返しだ。いつものように自分が悪者となり、初を泣かせた私が悪いと一方的に叱られる。
 果たして、初の乳母は茶々を睨み据えた。
「大姫さま、二の姫さまがまたお泣きになっておいでです。今日はいつもにもましてお哀しみ様がひどく、私が話しかけても、お泣き止みにならないのです。一体、今度は何をなさったのですか?」
 そう、いつもこうだ。最初から事情も訊かずに、私が悪いと決めつけてくる。
―一体、何をなさったのですか?
 それは、こちらが言いたい。何故、皆、初ばかりを可哀想だと言い、悪いのは茶々の方だと信じて疑わないのだろう?
「しばし、お待ち下され」
 乳母が甲高い声で更に続けようとするのに、例の男―猿面冠者が割って入った。
「先刻から話を聞いておったが、どうも、そこもとは、こちらの姫さまが一方的に悪いと決めつけてかかっておられるようだ。されど、喧嘩はいつの世も両成敗、たとえ大人同士であれ、子ども同士であれ、その論法には変わりはございますまい。こちらの姫さまをお咎め致す前に、まず両方の姫さまの言い分をお聞き申し上げのが妥当ではござらぬか?」
 至極真っ当な言い分には、乳母も返す言葉がないようであった。
 それでも、男をキッとにらみ付ける。
「無礼な。我はこちらの小谷城のご城主浅井長政さま、二の姫さまにお仕えする乳母でありますぞ」
 対する男は、いきり立つ乳母に頓着せず、慇懃に応えた。
「それがしは織田信長さまにお仕えする羽柴藤吉郎秀吉と申す者。以後、お見知りおき願いたい」
「は、羽柴、お、織田さまの」
 乳母の声が裏返ったのを、茶々は内心、良い気味だと思った。普段から権力や上の者には弱い女なのだ。父や母の前ではしおらしくふるまってはいるが、初が父のお気に入りなのを良いことに、茶々一人になると、子どもだと侮っているのが見え見えだ。
 それにしても、やはり、ただ者ではなかったのだ、この男は。
 道理で小柄で貧相とすらいえるはずの容貌でありながら、圧倒的な存在感を放っているはずだ。母の兄、茶々には伯父にも当たる織田信長。今や破竹の勢いで天下人たるも目前と目されている武将、その人の最も信頼する家臣、百姓から一介の武士にまで立身したといわれる知略の男、それが羽柴秀吉だといわれている。
 子どもの茶々もその秀吉の噂くらいは聞いたことがある。
「私、二の姫さまのお側に行かねばなりませんので、これにて」
 乳母は現金にも藤吉郎の正体が知れると、這々の体で逃げ去った。織田信長の懐刀を相手にしては分が悪いと判断したのだろう。
 乳母が去ったのを見届けてから、藤吉郎が人懐っこい笑顔で言った。
「姫さま、そのようなお顔をなさいますな。折角の可愛いお顔がほれ、今にも泣きそうで台無しにございますぞ」
 何故だろう、その言葉を聞いた途端、ほろりと涙が出た。
「おやおや、かえって、泣かせてしまったようだ」
 藤吉郎は懐から手ぬぐいを出したかと思うと、茶々の頬を流れ落ちる涙を甲斐甲斐しくぬぐった。
「姫さま、天が遠くにあるからと甘く見る者は、いずれ相応の報いを受けることになりまする。姫さまは持ち前の真っすぐなお心で正直に生きておられる。天は姫さまのその素直さ、賢さをよおく判っておいでですぞ。ですから、もう、お泣きにならずに、お笑いなさいませ。この藤吉郎はよく存じておりますぞ。姫さまは悪くはない。妹姫さま思いのお優しい姫さまじゃ。ゆえに、お泣きなさいますな」
 不思議なことに、藤吉郎の言葉は茶々の心に滲み込んだ。乾いた大地を恵みの雨が潤すかのように、ゆっくりと茶々の心にしみとおり、癒していった。
 それは、やはり初とのことで父に納戸に閉じ込められた夜と似ていた。あのときも母が来て〝私はそなたを信じている〟と言ってくれた。そのことで、茶々は救われたのだ。
 自分を信じてくれている人がいる。そう思うことで、何とか乗り切れた。 
 そして、更に今、母と同じことを言ってくれる人がここにいた。
―この藤吉郎はよく存じておりますぞ。姫さまは悪くはない。妹姫さま思いのお優しい姫さまじゃ。ゆえに、お泣きなさいますな。
 自分を信じてくれる人、存在がいる。たったそれだけのことで、人はどれだけ強くなれるのだろう。
 茶々の大きな瞳から、また一粒、涙が流れ落ちた。
 藤吉郎は良い歳をした男なのに、茶々が泣くと心底弱り果てたように表情になった。
「姫さまがお泣きになると、それがしは、どうして良いか解りませぬゆえのう。それゆえ、良い子ゆえ、お泣きなさいますな」
 と、またしても手ぬぐいで涙を拭いてくれる。
 ―それが、藤吉郎との出逢いだった。
「そうじゃ、それがし、良きものを持っておりまするぞ」
 ふと藤吉郎が思いついたように言い、懐から何やら取り出した。無骨な手のひらに乗っていたのは、見た目も鮮やかな飴だ。小さな五色の飴は手まりを象っていて、茶々の小さ口にもひと口で入りそうなほどである。
「綺麗」
 思わず呟きが落ちた。
 藤吉郎の猿面に似た顔に、にっこりと人好きのする笑みがひろがった。
「ほれほれ、やっと姫さまがお笑いなさった。やれ、嬉しや。藤吉郎も嬉しうございまするぞ」
 おどけたように、ピシャリと額を叩いて見せる仕草も滑稽で、あたかも辻芸人の大仰な身振り手振りを真似ているようでもある。
 げに不思議な男。―というのが、茶々の彼に対する第一印象であった。生来の人懐っこさは誰をも安心させ、警戒心を抱かせない。元々が剽軽な顔立ちなので、いつも笑みを湛えているようにも見える。その癖、目尻の皺に埋もれたかに見える細い双眸には鋭い光が時として閃く。
 全体としては茫洋として掴みどころのない男だといえた。父長政は思慮深い人物ではあるが、腹芸はできない。要するに策略とか相手を裏切るといったことは大の苦手だ。
 反対に祖父久政は腹の内がすぐに顔に出る、短期直情型。父より更に単純ともいえる。こうした身内の男しか知らない茶々にとっては、藤吉郎という男は魅力的ではあるが、どこか危険な雰囲気を纏っているようにも思える。
「お茶々さまは良い子にございますのう」
 藤吉郎が皺深い顔を更にしわくちゃにして、茶々の頭を撫でた。
 茶々はムッとした。
 これでは、まるで幼い童に対する扱いではないか。
「私はもう子どもではない。子どもに対するような話し方は止めるが良い」
 精一杯背伸びして大人びた口調で言ったつもりだったが、藤吉郎の眼にはどう映ったかは判らない。
 藤吉郎は一瞬、ポカンとしていたかと思えば、腹を抱えて笑い出した。