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火焔の月~淀どの問わず語り・落城秘話~

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「これはなかなかにお気の強き姫さまであらせられる。流石は我がお館さまの姪御さま、お市さまの娘御でいられますなぁ」
 笑われたことで、茶々は馬鹿にされたと余計にいきり立った。
 藤吉郎はふと笑いをおさめ真顔になると、何を思ったか、後戻りして庭に咲いていた曼珠沙華を一輪、手折ってきた。
「この藤吉郎、姫さまを子ども扱いなど致しておりません。その証にこれを」
 跪いて恭しく花を差し出され、茶々は何故か頬が熱くなった。
「もう、お泣きなさいますな。何があっても、姫さまは姫さまらしうに、この花のように凜としていつも前を向いていらせられませ。それがしは、誰が何と申そうとも、どこにおりましても、姫さまをお信じてしておりますゆえ」
 花を手渡す刹那、藤吉郎の真摯な声が茶々の耳朶を掠めた。
 自分を呼ぶ母の声が遠くから聞こえる。茶々がその声に気づいた時、藤吉郎が優しい笑顔で頷いた。
「さあ、お行きなされませ。それがしも、これにて失礼いたします」
「待ちや。伯父上さまよりのお遣いであれば、かかさまにご挨拶してゆくが良かろう」
 子どもながらも自らが上に立つ者であることを知る口調で言う。
 しかし、藤吉郎は薄く笑って首を振った。
「お市さまは、それがしをお嫌いになっておられまする。今はご挨拶をせぬ方がかえって、よろしかろうと思いますので」
 さあ、お行きなされと、軽く背を押され、茶々は振り向いた。何かとても名残惜しいような気持ちがしてならない。
「藤吉郎、もう逢えぬのか?」
「それがしと姫さまのご縁がありましたならば、いずれ必ずあいまみえることになりましょう」
 滑稽な猿面には似合わぬ深い声が茶々の小さな心を射抜いた。この男が何故、人を惹きつけるのか―、その瞬間、茶々は少しだけ理解できたような気がした。
 この男は声ですら、人を魅了する。
 藤吉郎に子ども扱いされると、腹立たしい想いになったこと、この男にはひとりの女として、一人前として見て欲しい。思えば、この瞬間から恋が始まっていたのかもしれない。   
 藤吉郎なら心底から信じられる。父と娘ほども歳の違う藤吉郎、しかも身分が違いすぎる彼と結ばれることはあり得ないだろうが、いつか、こんな男に出逢えたなら、藤吉郎のような男のお嫁さんになれたらと心のどこかで願う自分をこの時、はっきりと自覚していた。
 ぼんやりとその場に立ち尽くしていると、母お市が茶々の乳母を引き連れてやってきた。
「誰ぞと話しておったようだが?」
 少し気遣わしげに言う母に、茶々は愛らしく小首を傾げて見せた。
「いいえ、ずっと私一人でおりました、かかさま」
 藤吉郎は言った。母は自分を嫌っていると。ならば、藤吉郎とここで逢ったことは、母には言わない方が良いと子どもなりに判断したことだった。
「仮にも城主の娘たる身が城内といえども、軽々しく一人で歩いてはならぬ。殊に今日は兄上さまの遣いであの汚らわしき猿が参っておるそうな。とわもよくよく気をつけるように」
 とわ、というのは茶々の乳母の名(後の大蔵卿局)である。普段は滅多に声を荒げないお市に叱責され。乳母は恐縮して面を伏せた。
 母の言葉に出てきた〝猿〟というのが藤吉郎を指しているのは言うまでもない。
―母上は、何故、藤吉郎をそれほどお嫌いになるのか。
 問うてみたかったけれど、かえって母の心を逆撫でするだけだと判っていたから、訊かなかった。ただ、手には藤吉郎のくれた一輪の曼珠沙華と飴玉だけを握りしめていた。 
 それから一年の後、小谷の城は焼け落ちて、茶々は母と二人の妹と共に落城寸前の小谷城から逃れ、伯父信長の許に身を寄せた。
 しかし、父浅井長政を討ったのは、その信長であり、信長の主命を受けて小谷城を攻め落としたのは藤吉郎―羽柴秀吉であった。
―そなたには済まぬと思うている。
―私は―ただ、殿のお心のままに―。
 落城からおよそ一年前、紅蓮の月を眺めながら、両親がひそかに話していた会話は、既にこの悲劇を暗示していた。
 長政はいずれ自らが義兄である信長と真っ向から闘うことになるであろうことを予測していた。そして、お市の方は兄よりも良人に従うことを望んでいた。
 運命とは何と残酷なものなのだろうか。
 母はますます藤吉郎を忌み嫌い、殺意に誓い憎悪すら抱くようになった。
 そして、更に歴史はめぐり、伯父信長は明智光秀に本能寺で討たれて死に、藤吉郎秀吉が伯父の跡を受けて天下人となった。
 あの日、曼珠沙華が燃えるように咲き誇る小谷城の庭で藤吉郎と初めて出逢った時、よもや、小柄な猿面冠者が天下人になるとは誰が想像し得ただろうか。

 最後まで話し終えた私は、眼前の娘を見つめた。せつは固唾を呑んで私の話に聞き入っていた。
「話の初めに私は太閤殿下との出逢いを偶然と申したが、あの紅い月を―父上さま、母上さまと共に天守の月を眺めた数日後に殿下と出逢うたのだから、もしかしたら、私と殿下の出逢いも運命であったのやもしれぬな」
「そのような経緯がおありであったとは―」
 せつが声を震わせると、私は微笑んだ。
「もう、はるか昔のことよ。何しろ、私が六つになるかならずのことゆえの」
 私は上唇を少し舌で湿らせ、続けた。
「世間は何でも面白おかしく言い立てるものじゃ。太閤殿下が我が母上に横恋慕しておったゆえ、母上にうり二つの私を側室とした―、皆がそう噂した」
 あるいは、それも真実の一端を語る話ではあったのだろう。母が何故、藤吉郎をそこまで毛嫌いしているか、その理由を知り得たのは、既に伯父信長の許に身を寄せてからであった。
 藤吉郎は若い頃からお市に恋い焦がれていて、一時は信長に本気で母を妻にと願い出て、信長の逆鱗に触れたこともあったらしい。そんな経緯があり、お市は藤吉郎を汚らわしいものでも見るような眼で見るようになったとか。
 だが、その理由を知った時、私が考えたことを母が知れば、衝撃のあまり卒倒したに違いない。
 その時、私は咄嗟に思ったのだ。
 私であれば、歓んであの猿面の妻になるであろう、と。
 更にその後、伯父上が光秀に討たれ非業の死を遂げ、私たちは母上の再婚相手柴田勝家の居城である越前北ノ庄城に赴くことになった。
 勝家は当時、織田家中を二分する中の一大勢力の一つであった。勝家に対抗するのが何と、あの男藤吉郎秀吉であったのだ。母上は大嫌いな男に伯父上亡き後の天下と織田家を託すのがいやで、秀吉の競争相手である勝家に嫁ぐことを決意したのだ。
 更に時代は動き、義父勝家はまたも秀吉に攻め滅ぼされ、北ノ庄城は落城、母お市の方は今度こそ良人に殉じ城と共に焔に包まれて死んだ。
 私、初、小督の三人の娘たちは落城間際の城から救い出され、藤吉郎の許へ引き取られた。
 流石に二人の父を殺した男だと思えば、藤吉郎を憎まなかった―と言えば嘘になる。だが、憎しみ以上に、私はあの男に惹かれていた。遠い日、曼珠沙華の咲く庭で芽生えた初恋はずっと消えることなく私の胸の底に息づいていたのだ。
 この世でただ一人、母の他に私を信じてくれると言った男だった。大好きな父ですら、私の言い分に耳を傾けようとはせず、小狡い初の味方だったというのに。