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火焔の月~淀どの問わず語り・落城秘話~

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 お市だけが茶々を理解してくれた。大好きな父ですら、茶々は妹を泣かせてばかりいる困った子だと思い込んでいる。いつだったか、いつものように些細な事で喧嘩して、初が大泣きした。
 あまりだと思ったので、茶々は初を一回だけ叩いた。頬を打ったのだ。
 その日、茶々は父から物凄く叱られた。
―人間として最も恥ずべき罪は、自分よりも弱き者を苛めることである。そなたは今日、その罪を犯した。父の申すことが判るな?
 そう言われ、ろくに陽も射さない納戸部屋で何時間も正座させられた。罰として夕飯は抜きだった。父はかなり怒っているらしく、その表情も声も茶々がそれまで見たこともないほど厳しいものだった。
 母が幾らとなりしても、父はその日は茶々を許すとは言わなかったらしい。
 初が悪いたのだ、茶々の大切にしている人形の首を初がわざと折ったのだと父に言えば、もしかしたら父は茶々の話を聞いてくれたかもしれない。でも、茶々は言い訳なんかしたくなかった。
 自分は何も悪いことをしていないのだから、正々堂々としていれば良い。幾ら初が小手先で大人をごまかそうと、天はちゃんと見ているのだ。いずれ、天罰が下るだろう。
 子どもながら、妙に悟りきったことを考えていた。それでも、やはり幼い子どものこと、考えている中に悔しくて泣いてしまって、泣きながら眠ってしまった。
―茶々、茶々。
 呼び声に優しく揺り起こされた時、最初に映じたのは母の美しい面であった。
 そろそろ薄墨を溶き流したような淡い宵闇が狭い納戸にも忍び込む時刻になっていたが、その薄い闇にひっそりと浮かび上がる母の貌はまるで白い夕顔のように儚げでこの上なく美しかった。
―かかさま?
 まだ完全に覚めやらぬ瞳をこすりながら見上げると、母は微笑んだ。
―お腹が空いたであろう?
 母がにっこりと差し出したのは竹の皮に包んだお握り二個だった。
 もちろん、すぐにも手を伸ばしたかったけれど、茶々の持ち前の自尊心が止めた。茶々はぐっと歯を食いしばり、首を振った。
―私は頂けません。
 母はどこまでも頑なな娘を見て、笑った。
―構わぬ。殿は何も仰せではないが、恐らくは私がここに参ったのをご承知じゃ。ご存じでありながら、見て見ぬふりをなさっておられる。
 茶々はキッとして母を見上げた。
―私は罰を受けるような悪しきことを何も致してはおりませぬ。
―判っておる。
 そのひとことは、幼い茶々を困惑させた。
 母はもしかして、初の方が本当は悪いのだと知っている―? 芽生えた疑念を口には出さず物問いたげに眼で訴えると、母は茶々の眼を見つめ返し、しっかりと頷いた。
―何もかも母は存じておる。父上のお心までは判らぬが、母は茶々の方が正しきことを知っておるゆえのう。
 その刹那、茶々は何も言えなくなった。
 母だけは自分の立場を、正しさを理解してくれていた。そう思うと、それまで堪えに堪えていたものが一挙に溢れ出し、涙となって流れ出てきた。
 茶々は母の胸に飛び込んで、泣くだけ泣いた。
―可哀想にな。そなたはこの私に似て、どうも勝ち気な性分のようだ。この私も幼き頃は、年の違わぬ妹と喧嘩しては、兄上に叱られたものよ。妹も初と同様、子どもながら要領の良い子でな、私は今のそなたと全く同じであった。悪くもないのに、いつも悪者となり、叱られる役ばかり。されば、自分は悪くないと訴えれば良いものを、誇りがそれを許さぬのじゃ。ゆえに、そなたの心中はこれでも、よう判っておるつもりよ。
 母は茶々の丈なす振り分け髪を撫で撫で、自らの体験を語って聞かせた。茶々はその日、溜まりに溜まったすべてを吐き出すかのように泣いた。あのときの母の胸の何とやわらかく、良い匂いだったこと!
 綺麗な女(ひと)というものは、その身体から漂ってくる香りまで花のようにかぐわしいものかと子どもながらに思ったものだった。母の胸で泣くだけ泣いたことで、心の底に澱のように淀んでいたものが跡形もなく消えた。
 それ以来、茶々は今まで以上に、毅然としていられた。母だけは自分を信じてくれているのだ。そう思うことで、初の狡さを許すこともできたし、初ばかりを庇う父を恨まずにも済んだ。
 確かに母の言うように、茶々は母お市の方によく似ていた。長政とお市の間には三人の姫がいたが、その中で最もお市に似ているのが長女の茶々であった。天下一の佳人と噂された美貌もさることながら、茶々はその気性も母譲り、儚げな外見を裏切る勝ち気で誇り高い性格の持ち主だったのである。
 納戸に閉じ込められた一件以後も、相変わらず初の嘘泣きは続き、その度に茶々は父に叱られた。それでも、母のあのひとことがあったから、何とか耐えてこられたのだ。
 そんなある日のこと。
 茶々はいつものように初と遊んでいて、喧嘩した。喧嘩といっっても、初の思いどおりにならなくて、初がまた泣きながら父に言いつけに行ってしまったのだ。
 別に毎度の喧嘩と変わらない。茶々は眼前に飛び散った曼珠沙華の花びらとままごと道具を惚けたように見つめていた。
 きっかけは些細なこと。石の上でむしり取った曼珠沙華の花びらを小刀で刻んでいた。野菜を包丁で切るのに見立てた女の子らしい遊びだ。
 まだ四つになったばかりの初には難しすぎて、花びらが切れなかった。対して直に六つになる茶々はすぐにできる。初には、それが気に入らなかったのだ。
―姉さまの馬鹿。
 初はいきなり籠ごと茶々にぶつけて、わあわあと泣きながら駆けていってしまった。籠には刻んだ花びらが入っていたから、茶々は曼珠沙華の花びらを頭から浴びることになった。
 何で、いつもこうなるのだろう。同じ父母を持つ姉妹なのだから、もっと仲よくできないものか。
 茶々は子どもなりに考えていたが、初には仲よくしようという気はないらしい。 
 茶々は緩慢な動きで髪についた花びらを払った。無数の紅い花びらが舞った。
 その時。
 頭上から男の声が降ってきた。
「これは、これは。曼珠沙華の花の精かと思えば、大姫さまでございましたか」
 深い印象的な声に誘われるように顔を上げれば、その先には一人の男が佇んでいた。端正な面立ちで上背もある美丈夫の父を見慣れている眼には、その男は正直、随分と異様に映った。
 まるで猿のようなくしゃくしゃの顔に、男にしては身の丈も低い。おまけに歳の割には頭髪は既にかなり少なくなっているようで、けして豊かとはいえない髪をどうにか集めて髷を結っている。
 どう見ても、お世辞にも男ぶりが良いとはいえない。しかし、不思議と細められた眼は柔和で温かみがあり、対する者を惹きつける力があった。
「―猿面冠者」
 口に出してしまってから、流石に紅くなった。六歳ともなれば、他人の容貌に対して口にしてはならないことがあるくらいの分別はつく。
 しかも、相手の男の身なりはそう悪くはなかった。麻ノ葉模様の浅黄色の着物と紺地の袴は上物ではないにせよ、下人の身につけるものではなかった。見慣れない顔―大体、この容貌なら、浅井家中の者であれば、忘れるはずがない―ゆえ、よそから父を訪ねてきた使者もくしは客人とも考えられた。
 茶々は六歳になるかならずして、そこまで考えられるほどの聡明さを持ち合わせていた。