麻子
最寄り駅までは十二、三分。
住宅の立ち並ぶ穏やかな所を抜けると緩やかな坂。
駅の付近は、コンビニやドラッグストア、洋菓子店、飲食店、花屋などがある。
夜遅くなっても、女の一人歩きも安心してできそうな道だ。
駅の入り口近くに店を構えているのは、本屋さん。
本屋の主人らしいおじさんとは、店の前を通るとき、挨拶をする。
本を見に立ち寄ると、よくしゃべる。
気が合うというわけではないが、仕事に欲しい本があると、頼み込んだりしていたので
親しくなったのだ。まあ、あちらは商売だから当然なのかもしれないが……。
そのおじさんが、店先の本を整頓している。
いまどき?という感じだが、木の柄のハタキを持っている。
「おはようございます」
「おはよう……あれ?今朝は遅いんだね」
「ええ」
「さては寝坊かい?それとも休み?」
「違うんです。昨日で仕事辞めちゃったの。でもここには、来るからね。」
「お洒落して、デートかな……寿ってやつか」
私は、おじさんのテンポに自然に笑みが零れた。
「今から、実家に行くの。遊び。じゃあまた」
私の後姿をおじさんの声が押した。
「そっか、辞めたのか。いってらっしゃい」
(そうなんだ……私、会社辞めたんだなぁ)
一人暮らしの生活をしていると、朝の挨拶を交わす人がいると何となくほっと感じる。
明日からも、この声だけは聞きたいなと思った。
駅の入り口の階段を降りる。改札口を抜ける。
いつもとは逆方向のプラットホームで電車を待つ。
二分ほどして電車がホームに入って来た。
扉が開き、乗り込む。
時間帯が違うのもあるが、オフィス街へ向かう線の逆というだけでいつものラッシュが
嘘のようだ。
座席にも座れた。
バッグから手帳を取り出し、開いた。
会社でのスケジュールや遊びの予定などが、黒々と書かれてある。
そして、昨日の枠には赤色ペンで『α day(アルファデー)』と書き込んである。
『退社』と書くと全てが終わってしまう気がして、そう、望みまで消えてゆくような……。
あしたがあるのよ!何かが始まるあしたが!……なんて思い、退社願いが受理された日、
『α day(アルファデー)』と名づけて手帳に書いたのだ。
まあ、赤色ペンで書いたことは、たまたま仕事の途中に手にしていたからという理由だけだ。