麻子
電話の子機を取ると、ピピポ!と押し慣れた短縮番号にかけた。
「はい、守原でございます」
「あ、私、麻子。おはよう」
「おはよう」
母の軽やかな声だ。
『毎日、実家へ電話を入れること』
私が、一人暮らしをするときの約束事だ。
電話といえば、この電話機は、初給料で買ったもの。
携帯電話を持っているが、実家へはこの固定電話からの連絡が決まりだ。
しっかり者の母は、入居時に間に合うように、用立ててくれたが、給料日には、しっかり取り立てて行った。
だが、母は、私の一番の理解者、時間を忘れてしゃべってしまう良き話し相手だ。
「今、何していたの?」
「今日、お父さんは、会議がある日で早出だから、今送り出してきたの」
「そう、もう出かけたのか」
「麻子こそ、今朝はゆっくりしているのかと思ったら、いつも通りで感心なことね。
今日はこちらへ来るんでしょ」
「うん、昼頃には行けると思うから、昼はそちらで食べるね」
「はい、どうぞ。じゃあ待っているわね」
「じゃあとりあえず、バイバイ」
「はい。バイバイ」
昨日の朝まで電話を切るときは、『行ってきます』『いってらっしゃい』だった。
会社を辞めたのだという実感が少しわいた。
受話器を置くと、グラスの牛乳を一気に飲み干した。
「ふう、美味しっ…」
ティッシュペーパーに手を伸ばし、口のまわりになっているだろう『白髭』を拭った。
私は、昨日までと同じ、いつも通りの朝を過ごした。
それに加えて、掃除もしてみた。陽射しが一直線に部屋に差し込んでいる。
片付ける部屋が、一段ときれいに見えるようだ。
あれこれ動いているうちに、寝起きの頭痛はなくなっていた。
「さてと、着替えよっと。何を着ようかな……」
いつものことながら、ひとり ぶつぶつと言いながら仕度をする私。
迷った末、今日は入社が決まったとき、両親に買った貰った服を着ることにした。
普段の通勤には、着ることはない。
クリーニング屋からの袋が被っている。袋を開けると、独特の香りが鼻をかすめた。
着替えて、化粧をし、ドレッサーの前で整えて、くるりと回って全身を見た。
「よーし、完璧だぁー」
何を意気込んでいるのか自分でも可笑しく、鏡の私に舌を出した。
通勤の膨らんだバッグを掴むと、部屋をひと回り、戸締り、火の元と指差し確認。
部屋を出た。
ガチャン。カチャカチャ。
玄関のドアの鍵を確かめる。ずっとしてきたお決まりで部屋を後にした。