虫めずる姫君異聞・其の三
―おいで、おいで。ここに来れば、もう誰に心を乱されることもない。男に欲まみれの眼で見られることもないし、そんなことで辛い想いをすることもないのだよ。
あれは誰の呼び声だろうか。
公子がその呼び声に唆され、いざなわれるようにして川べりにいっそう近付いたその時―。
ふいに脚許にポトリと何かが落ちてきた。
ハッとしてしゃがみ込んでみると、地面で小さな虫がもぞもぞと動いている。そっと拾い上げて月光に透かしてみると、それは小さな黒い虫だった。大方、川原に生いしげった秋草についていたのだろう。
―こんな小さな虫だって生きているのよ。
唐突に幼い日の自分の声が耳奥でありありと甦った。いつだったか、あの男にそう言ったことがある。どんな小さな虫だって生きているのだから、むやみにその生命を奪ってはならないのだと。
ああ、自分は何と浅はかな、取り返しのつかぬことをしでかそうとしていたのだろう。
公子は涙に濡れた眼で、愛おしげに小さな虫を見つめた。
「ありがとう、お前はきっと私を助けてくれたのね」
ほんの偶然の出来事なのかもしれない。しかし、そのときの公子には、確かに虫が自分をこの現世(うつしよ)に繋ぎ止めようとしてくれたのだと思わずにはいられなかったのだ。
月光に透かしてみると、毛むくじゃらな虫が銀色に光って見える。
「お前は、本当はこんなに綺麗なのにね」
公子はそう言って笑うと、壊れ物を扱うような手つきでそっと虫を草むらに戻してやった。
そう、何があっても生きなければ。
公子は思い直すと、川とは反対の方向へとゆっくりと歩き出した。
どれくらい歩き続けただろう。
夜が東の空の方から白々と明け始めた頃、公子は京の外れにさしかかっていた。
空を仰ぐと、蒼みを失って白っぽくなった月が辛うじて見えた。今にも陽の光にかき消されてしまうかのようなその様子がいかにも頼りない。
公子は俄に心細さを憶えずにはいられなかった。この界隈は都でも最も外れに当たり、殊にこの朱雀門周辺は治安が悪い。昼間でも人通りが少なく、夜間には夜盗や追いはぎが毎夜のように出没するという。
そろそろ夜明けも近いけれど、まだ周囲には人っ子一人見当たらない。ひっそりと静まり返った大路の向こうに紅い丹塗りの巨大な門が聳え立っているのが余計に不気味で、圧迫感を与える。
道の端に老婆が蹲っているのが見え、公子はホッとした。人恋しさのあまり、老婆に近付いてゆく。間近で見ると、枯れ木が襤褸を纏ったようで、白髪はそそけ立ち、それこそ幽鬼のように怖ろしげに見える。それでも、我が身一人でないと思えば、人ひとり見えないこの場所では心強い。
「もし」
呼びかけて、公子は、うっと口許を抑えた。蹲った老婆から耐えられないほどの臭気が漂ってくるのだ。
これは―。公子は俄に不吉な予感に囚われ、老婆の肩にそっと手をかけ揺さぶった。
と、頼りなげな老婆の身体は、クラリと揺れ、公子が手を放すと、そのまま地面に倒れた。
「―!」
公子はその場に固まり、物も言えなかった。
老婆は既に死んでいた。事切れてからもう幾日も経過しているのか、道に仰向けに倒れた老婆の顔は半ば白骨と化し、わずかに残った肉は腐り蛆が湧いていた。
気の毒に、ゆき場がなく倒れ、そのまま息絶えてしまったのだろう。
これが、庶民の現実なのだ。
貴族たちは管弦だと詩歌だと遊興に現を抜かし、夜毎、華やかな恋の花を咲かせ、優雅な暮らしを送る一方で、庶民はその日の食べる者にも事欠き、弱った老人や幼児は儚く生命を散らす。
公子はしばし物言わぬ骸と化した老婆を茫然と見つめていたが、手のひらを合わせて黙祷を捧げた。
彼方に紅い門が見えている。
いかめしくゆく手に立ちはだかる門に気圧されながらも、なお公子が一歩を踏み出そうとしたまさにその時、公子のゆく手を大きな影が遮った。
「姉ちゃん、こんな時間にこんな場所で何をしているんだ?」
顔を上げると、人相も風体もおよそ良くない男が二人、眼の前に立っていた。着ている水干は薄汚れ、元の色も定かではないほど真っ黒、括り袴からは毛脛がにょっきりと出ている。二人とも筋骨逞しい男で年の頃は三十そこそこといったところか、髪の毛はボサボサで、少し離れた公子にも二人から漂う悪臭が匂った。
―この男たちは盗賊だ!
今、夜になると都の人々を震撼とさせているのは何も、魑魅魍魎、物の怪の類ばかりではない。鬼丸といった、いかにも怖ろしげな二つ名を持つ夜盗が徘徊し、貴族の屋敷ばかりか裕福な商家などまでをも襲っているという。一度押し入られたら、とことんまで奪い尽くし、女は陵辱の限りを尽くされるという怖ろしい盗賊だ。
その鬼丸一味は常にたった二人だけで行動するという。顔も背格好も全く同じ、瓜二つの双子で、その容貌も呼び名に相応しい鬼瓦のような怖ろしげなものだとか。
「あ―」
公子は一瞬、恐怖に身が竦んだ。
二人組の盗賊、鬼丸一味。
この男たちがそうであるという確証はない。しかし、眼の前の二人の風貌は噂に聞いている冷酷であくどい盗賊一味にぴったりと符号していた。
「兄貴、こいつは良い獲物に出逢ったみたいだぜ。上玉じゃねえか」
右側の男が言うと、傍らの男が下卑た笑いを浮かべ頷く。どちらも、いかつい赤銅色の顔をしているが、左側の男は眼許に黒子があるのが特徴的だ。
「おう、ここのところ、検非違使の警戒が厳しくなって仕事がやりづらくなっていたからな。くさくさしてたところだし、丁度、憂さ晴らしに良いか」
二人は顔を見合わせ、何とも厭な笑いを浮かべた。一人が顎をしゃくると、いきなりもう一方が公子に近付いてくる。
あっと思ったときには遅かった。逃げようとした公子は近付いてきた男に両脚を持ち上げられていた。
甲高い悲鳴が上がったが、男たちは頓着せず、もう一人の男の方までがやって来て、公子の上半身を抱え上げる。二人の屈強な男に抱えられ、公子は朱雀門まで運ばれた。
門の下まで運んできた公子を男たちは手荒に地面に投げ出した。
「兄貴、この娘、随分と良いみなりをしてるな。もしかして、貴族の姫さんとかじゃないのか」
「かもしれねえな。それに、見てみろよ。この膚。吸い付くような膚じゃねえか」
兄貴と呼ばれた方が舌なめずりしている。
公子の顔を覗き込むと、ニッと笑った。
「怖がることはねえよ、俺たちが手取り足取り教えてやるからさ」
近付いた男の口からは吐き気を催すほどの臭気が漂っている。
公子は思わず顔を背けた。
男の手が胸に触れ、公子は絶叫した。
「いやっー」
「おい、幾ら何でも、これは煩すぎだ。黙らせろ」
兄貴と呼ばれた男が命じ、弟が腰の布を公子の口に押し込んだ。公子の口からは声にならない声が洩れる。
その眼からは大粒の涙がしたたり落ち、頬をつたった。
こんな男たちに犯され、辱めを受けるくらいなら、昨夜、宇治川に飛び込んで生命を絶っていた方がよほどマシだった。
公子は溢れる涙をぬぐうこともできず、眼を閉じた。両手は荒縄で縛られているため、抵抗らしい抵抗もできない。
作品名:虫めずる姫君異聞・其の三 作家名:東 めぐみ