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虫めずる姫君異聞・其の三

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「この頃、私が宇治の別邸に女を囲っているという噂が立っています。しかも、足繁く通うところから、その女が懐妊しているのではないかとさえ囁かれているそうです。私は、そういった世事には疎いので、つい最近まで、そういった噂があることさえ知りませんでした。しかし、昨日、伯父に呼ばれて、こっぴどく怒られました。もし、そういった女がいるのであれば、結婚して、きちんとけじめをつけろと。さもなければ―もし本気でないのなら、さっさと別れて、相応の家柄の娘を妻に迎えるようにとも言われました」
 公子は黙って男の言葉を聞いているしかない。
 この場で何をどう言えば良いというのだろう。自分は公之を確かに愛している。だが、肝心の相手の気持ちも判らないし、第一、公子は公之の親切でこの別邸に厄介になっているだけの人間にすぎないのだから。
「もし、私がここにいることで公之さまにご迷惑をかけているというのであれば、私は明日の朝にでもここを出てゆきます」
 公之にはもう十分世話になった。これまで長い間、公之の優しさに甘えすぎたのかもしれない。
「ずっとひとかたならずお世話になり、公之さまには言葉には言い尽くせぬほどのご恩を感じております。何もご恩返しができないのは心苦しいのですけれど」
 公子が小さな声で言うと、公之が強い声で言った。
「私は、そんなことを話しているのではない!」
 烈しい声に、公子はビクリと身を縮めた。
「姫、すべてのものを捨てて、私と一緒になってくれませんか」
 公之が固い声音で言った。
 到底、求婚をしている男の声とも思われないほどで、甘さなどかけらも含まれてはいない。
 公子は今夜の公之は怖い―と思った。
 抑揚のない低い声や何を考えているか知れぬ瞳はこれまで公子が見た公之とはまるで違う。
「私は、どうせもう死んだことになっている人間です。今更、そんな風におっしゃって頂けるような女ではありません。捨てるも何も、今の私には持っているものなど何一つありはしないのですから」
 消え入るように言うと、公之は淡々と続けた。
「では、姫はこれから、どうなさるおつもりなのですか? 一生誰にも嫁がず、ただここで空しく老い、朽ち果てるのを待つと?」
「公之さまがご迷惑でないというのであれば、このまま、ここで今のままで過ごさせて頂きたいと思うております」
 うつむいたまま言う。
 公之の声が高くなった。
「では、あなたは一生このままで良いと言われるのか、生涯誰にも嫁がず、ここで死を待つだけの日々を送っても良いと」
 涙が溢れそうになる。
 突然、公之がこんなことを言い出したのは、恐らくは彼の言うように伯父公明に問いただされたからなのだろう。
 自分は、こんなにも公之の負担になっているのだと思うと、今更ながらに哀しかった。
「姫は私をお嫌いか?」
 振り絞るように問われ、公子は夢中で首を振った。
「私は多分―、公之さまを好きなのだと思います。さりながら、幾ら公之さまをお慕いしていても、上手くやってゆく自信がないのです。私は世間から言われているように変わっているし、美人でもありません。私は自分のことをこれでもよく知っているつもりでおります。ですから、こんな私と結婚して下さっても、あなたがいずれ私に飽きてしまわれるのではないかと思うのです」
 公之を愛してはいるけれど、一人の男と共に上手くやってゆく自信がない。それは、今の公子の正直な気持ちだった。
 そんな自分に、いつか公之は飽き、愛想を尽かすだろう。そうなった時、公子は公之に見捨てられ、たった一人でちゃんと生きてゆけるだろうか。二人で生きることの歓びや愉しさを知った人間に、再び孤独に耐えることができるだろうか。
「多分、好き―? 姫は自分の気持ちさえ、しかとは自覚できぬと仰せですか。私なら、はっきりと言える。私は姫を愛している。姫とずっと一緒にたいと今、この場で言えます」
 苛立ちのこもった声。
 これまで一度もこんなことはなかったのに、この日は話せば話すほど、会話がかみ合わない。もつれた糸が更にもつれて解(ほど)けなくなってしまうようだ。
「それに、私が訊きたいのは、姫が私の気持ちをどのように想像しているかではない。姫が私をどのように思っているか、それだけだ」
「―申し訳ありません、私、どのようにお応えしたら良いか判りません」
 公子は溢れそうになった涙をこらえ、やっとの想いで言った。
「―主上のお気持ちが今になって判る」
 ふと公之が洩らした言葉に、公子は弾かれたように面を上げた。
「公之さま、今、何と―?」
「姫、あなたはその無邪気な、時にあどけないともいえる愛らしい笑みで男を惑わせる。あなたのその穢れのない美しさに男は皆、心奪われてしまうのだ。だが、あなたは自分が男を魅きつけてやまぬことなど、一切気付いてはいない。それは最も重い罪だ、姫、あなたは男の心を惑い狂わせる魔性の女だ」
―そなたには男を狂わせる魔が潜んでいる。そなたは、その無邪気な虫も殺さぬ可愛い顔で、男を誑かす。
 かつて、公子にこう囁いた男がいた。
 欲情に薄く眼を翳らせ、嫌らしげな笑みを浮かべて公子に襲いかかってきた男、その男は力づくで公子を思い通りにしようとる自分が悪いのではなく、男を虜にする公子自身が悪いのだと言った―。
 そして今、公之までもがあの卑劣な男と同じことを言う。悪いのはすべて公子だと、公子が男の心を惑わせるから、こんなことになるのだと。
「姫、私の気持ちを判ってくれ。私と一緒になると言ってくれないか」
 公之に突如として手首を掴まれ、公子は悲鳴を上げた。
 強く引き寄せられ、公之に抱きしめられる。
 だが、今日はいつかの抱擁とは異なり、公子は安心できるどころか、ただただ怖ろしいと思うばかりだった。
「な、姫。私の妻になってくれ」
 逃れようとする公子をいっそう強く抱きしめ、公之はかき口説く。その場に押し倒されたかと思うと、すかさず公之が上からのしかかってきた。
 のしかかってきた公之は怖いほど迫力がある。公之の熱い手が公子の身体中をまさぐった。力を込めて襟元をくつろげようとするのを必死で拒みながら、公子は涙ながらに叫んだ。
「こんなのは厭、こんな力づくなのは厭!! 公之さまも、所詮はあの方と一緒だったのですね。あの方も私にあなたと同じことを仰せでした。私がすべて悪いのだと、私が隙を見せることが、殿方を誘うのだと」
 その言葉に、公之がハッとした表情になった。公之が一瞬怯んだその隙に、公子は両手で力一杯、公之の胸を突いた。
「全部、私が悪いのだと―!!」
 悲鳴のような声は涙混じりだった。
 思いがけぬ攻勢に遭い、公之が力を緩める。その一瞬、公子は泣きながらその腕から逃れた。
「姫ッ」
 公之の狼狽した声が呼び止める。
 だが、公子は夢中で走った。
 屋敷を出て、ふっと我に返ったときには別邸から随分と隔たった道を歩いていた。
 いっそのこと、このまま死んでしまおうかとも考える。眼の前を宇治川が流れていた。
 月光を受け、水面が銀色に輝いている。
 優しい川のせせらぎが呼んでいるように聞こえる。