虫めずる姫君異聞・其の三
問われ、公子は眼を見開く。
秋の穏やかな陽が女郎花の花に燦々と降り注いでいる。その陽光に眩しげに眼をまたたかせ、公之は呟くように言った。
「姫がここから出てゆかないのは、他に行くところがない―、ただ、それだけの理由なのですか」
公之と公子の視線が宙で絡み合った。
まともに公之の顔を見ていられなくて、公子は、ふっと視線を逸らす。
「いいえ」
消え入るような声で応えると、なおも公之が問うた
「では、何故?」
公子はうつむいたまま、小さな声で言う。
「それは―、私が公之さまのお側にいたいと思うからです。ここにいれば、たまにでも公之さまにお逢いすることができます。だから、私はずっとここにいたいと思うのでしょう」「姫」
呼ばれて、公子は弾かれたように顔を上げる。まなざしとまなざしが切なく絡み合ったけれど、今度はもう公子は視線を逸らさなかった。
公之の真摯なまなざしが公子に向けられている。男の貌がゆっくりと近付いてきて、唇がごく自然に重なった。
強引に奪われた帝との口づけとは違い、優しく鳥の羽が軽くかすめるような口づけだった。
鳥がついばむような口づけを幾度が重ねた後、次第に深まってゆく口づけを公子は素直に受け容れた。ひとしきり唇を重ねた後、真剣な面持ちの公之が耳許で囁く。
「約束して下さい。本当になよたけの姫のように私を残して、どこにも行ったりしないで下さいね? ずっと私の傍にいて下さい」
少し迷った末、公子はその後に、こう付け加えた。
「私はかぐや姫のように綺麗ではありませんもの」
はにかみながら言うと、公之は真顔で言った。
「いや、姫は十分に綺麗だし、魅力的だ」
その言い方があまりにも生真面目な口調なのに、公子は思わず笑いが込み上げてきた。「何ですか、人が真面目に恋の語らいをしているというのに、笑うことはないでしょう」
公之が拗ねたように言う。
初めて見る少年のような無邪気な表情に、公子は微笑む。
公之とめぐり逢って、もう五月(いつつき)になる。その間、色んな話をしたけれど、今の自分はまだまだ公之のことを殆ど知らない。
この男のことを、もっと知りたいと思う。
公之が見せる色々な表情をもっと見てみたいと思う。
この男の傍にいて、共に歳を取り、様々な物を一緒に見て、語り合いたい。
春も夏も秋も冬も。
降り積もる年月、一緒にいて同じ景色を眺めていたい。
一人の男に対して、そんな風に感じたのは、これが初めてのことだった。
恐らく、これが草紙物語の姫君たちが体験した〝恋〟というものではないのか。その時、公子は、ぼんやりと思った。
刻はうつろってゆく。
様々な人の想いを呑み込んで、月日は流れていった。
澄んだ晩秋の空気に色づいた山々がくっきりと立ち上がる季節になった。
いつしか公子が宇治の別邸で暮らすようになって八月(やつき)が流れていた。
三月(みつき)前には黄色い愛らしい花を咲かせていた女郎花に代わり、今は色とりどりの小菊やがまずみが庭を彩っている。がまずみの枝に、紅瑪瑙のような小さな実が晩秋の陽を受けて、つややかに輝いている。
虫の音もかすかになったことが秋の深まりを告げるある夜、突如として公之が一人で訪れた。
いつもなら惟明(これあき)という従者を連れて馬でやって来るのに、今日は伴も連れず単騎でやって来たらしい。
それにしても、公之がこんな夜分に訪れるのは初めてのことであった。これまでは昼頃にふらりと訪ねてきて、半日ほどゆっくりと寛いだ後、夕刻には帰ってゆくのが常であった。
丁度、公子は文机に向かって書き物をしていたところであった。
秋空雲流
何在彼方
雲唯流消
鳥行何処
我心亦然
秋の空に雲は流れ
彼方には何が在らん
雲はただ流れて消え
鳥はいずこにへと行かん
我が心もまた然り
要訳
秋空に雲が流れている
あの空の彼方には一体何があるのだろうか
雲はただ流れ消えゆき
空を飛ぶ鳥はいずこにゆくのだろうか
私の心もまたあの雲や鳥のようにあてどなく漂い流れ、どこにゆくのか、ゆく先は判らない
公之は自分では武芸にしか能がないと謙遜しているが、琵琶をたしなみ、しかもこれがなかなかの腕前であった。名手とはいえないまでも、衆に抜きん出ていることは確かである。この日も姿を見せるなり、置いてある琵琶を持ち出してきて、ひとしきりかき鳴らした。
公之が請うので、公子もまた琴をつま弾く。しかし、公子は正直、琴が得意ではない。何しろ、ろくに練習もしたことがないのだから、上手く弾けないのも無理はない。ここに来て、時折公之が教えてくれるようになり、それでもまだ以前よりは少しは上達したのだ。
どうやら公之は武芸の他に楽器もたしなむらしい。琴の腕前もかなりのもののようであった。もっとも男性が琴を弾くことは殆どない。公子もただ一度だけ、お手本にと公之が初歩の練習曲を弾いたのを耳にしたことがあるだけだ。
一刻ほど二人で琵琶と琴を合わせた時、公之がふっと琵琶をかき鳴らす手を止めた。
琵琶を傍らに置いて、庇近くまでゆくと、そっと御簾を巻き上げる。
菫色の夜空には銀色の月が掛かっている。
清かな光を投げかける十六夜の月は現のものとも思えぬほどに幻想的で美しい。
庭の石が月光に濡れ、光り輝き、がまずみのつぶらな紅い実が夜陰にほの白く浮かび上がっている。
縁側に立った公之は円い月を振り仰ぎ、ふと呟くように言った。
「姫は前(さき)ほど、何か書いておられたようですね」
公之が訪れるまで書いていた漢詩のことを言っているのだと判り、公子は頷いた。
「見せて頂いてもよろしいでしょうか」
催促され、公子はすぐに立ち上がり、文机まで漢詩を書き付けた紙片を取りに行った。
薄様の美しい和紙を差し出す。
公之は黙って受け取ると、その紙を食い入るように見つめた。
短い静寂が降りる。
いつもなら公之と二人だけでいても少しも気まずさなど感じたことがないのに、その夜は違った。
公子が気詰まりな沈黙を持て余していると、公之がポツリと洩らした。
「私には姫が何を考えているのか判らない」
思いもかけぬ言葉に、公子は眼をまたたかせた。
「私が何を考えているか判らない―?」
公之の言葉をそのままなぞると、公之が弱々しい笑みを浮かべた。
「姫は私のことを一体、どのように思っているだろうか」
「え―」
どうも今宵の公之は少し変だ。思いも掛けぬことばかり言う男を、公子は茫然として見つめるしかない。
「姫はこの漢詩にご自分のゆく先が判らないと書いていらっしゃいますが、心からそのように―ご自分を頼るものとてない、寄る辺なき身だと考えているのですか」
「―」
公子は言葉を失った。この詩は何も難しいことを考えて作ったわけではない。気慰みに、ふと心に浮かんだ言葉を適当に繋げ合わせて作っただけにすぎない。
その詩が、公之の気に障ったのだろうか。
公之がフッと笑った。どこ自嘲めいた笑みを刻む男に公子は胸騒ぎを感じる。
月明かりに照らし出された公之の顔が、公子には見知らぬ別の男のように見えた。
作品名:虫めずる姫君異聞・其の三 作家名:東 めぐみ