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虫めずる姫君異聞・其の三

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 つまりは、現在の公子がそれだけ落ち着いた日々を送っているということにもなる。
 耳を澄ませると、遠方からかすかに川の音が聞こえてくる。あれは、宇治川のせせらぎだ。時折、空高くで鳴く鳥の声が心に滲みた。仮寝の中で聞いたせせらぎや鳥の声は、恐らくは現のものであったに相違ない。
 低い川の音に耳を傾けていると、改めてここが都から遠く離れた宇治なのだと実感する。
 かつて左大臣家の姫として生きていた藤原公子という人間は、もうこの世にはいないことになっている。そのことが現のことのようにも、夢の中のことのようにも思われてくる公子であった。
 自分という存在が抹消されてしまったことへの哀しみや落胆は感じなかった。もう昔のように帝の翳に怯える必要もない。そのことの方が嬉しい。内裏で過ごした半月間は、公子にとって、まさに生き地獄であった。いまだに公子は、帝が何故、あんなことを自分にしようとしたのか理解できない。卑猥な笑みを浮かべて身体中を撫で回されたり、弄られたりすることが、たまらなく厭で怖かった。
 もう二度と、あんな想いはしたくない。
 今は、こうして川のせせらぎや鳥の声、花の美しさに心を向け、穏やかな刻を過ごせることが夢のように思えた。
「そういえば、庭の女郎花が今、とても綺麗に咲いています」
 公子がふと思い出して口にすると、何か物想いに耽っていたらしい公之がハッと顔を上げた。
「良かったら、庭に出てみませんか」
 公之の申し出には心惹かれるが、公子は、でもと、躊躇いを見せた。
 女人が昼日中から庭へ出て姿を晒すのは、けして体裁の良いことではない、むしろ不作法なこととされる。
 と、公之は淡く微笑した。
「私のことなら、何もご遠慮はいりませんよ。私はどうも世の良識ある人々とは違っているようで、女人だから屋敷の奥深くに閉じこもっていなければならないとか、そんな堅苦しい因習や習わしには、あまり拘らない質なのです。こんなところもおよそ、紀伊家の人間らしくないと、よく他人からは言われますが」
 公之の心遣いが嬉しく、公子は言葉に甘えて公之と一緒に庭に降りた。
 日毎に高くなってくる秋の蒼空に、ちぎれ雲が重なり合うように浮いている。
 女郎花の可愛い花が身を寄せ合うように咲いている。公子は眼にも鮮やかなその花に見入った。ふと、緑の葉の上に小さな毛虫を見つける。
「まあ、可愛い」
 思わず呟いてその虫をほっそりとした指先でつまみ上げると、慣れた手つきで手のひらに載せた。
「お前だって、頑張って生きているのよね」
 毛虫はもぞもぞと公子の手の上で蠢く。
 その虫に真剣に語りかけている公子を、公之は傍らで眼を細めて眺めていた。
 しばらく心地良い静寂が流れる。
「そうやって虫と話しているときの姫は、本当に幸せというか、愉しそうですね。何だか私といるときよりも愉しそうで、男として少々妬けますね。もっとも、幾ら何でも人が虫に嫉妬するなぞ、あまりにも滑稽な気もしますが」
 唐突な言葉に、公子はハッと現実に返った。
 公之の声は笑いを含んでいたが、公子は、それよりも衝撃の方が大きく、公之の戯れ言めいた物言いにも気付かない。
「ごめんなさい、私ったら、つい夢中になってしまって。―いつもこうなのです。虫を相手にまるで人と話すように真面目な顔で話をするから、気持ち悪いと気味悪がられるのです」
 公子は泣きそうになっていた。
 よりにもよって、公之にこんなみっともない姿を見せてしまうなんて、自分はどこまで馬鹿なのだろう。きっと優しい公之も愕き呆れ、愛想を尽かしてしまったに相違ない。
 これまでに公子の虫好きを理解してくれた人は誰もいなかった。実の姉のように気を許していた相模でさえ、公子に幾度となくこの癖を止めるようにと言い聞かせていたほどなのだ。
 公子が涙ぐんでいると、公之が口許を緩めた。
「私は何も姫を責めようとしているわけではありません。あなたの言うように、どんな小さな虫だって、生命があるし、ちゃんと生きている。大概の人であれば、たかたが虫なんてと言います。けれど、その虫の生命の重さを理解できる姫は真に心優しいひとなのだと思います。あなたは何も恥じる必要はない。それに、虫と話をしているときの姫は、とても生き生きと輝いて見える。姫は虫を可愛いとおっしゃいますが、私にはそんな姫もとても可愛らしく見えます」
 最後の科白は、少し紅くなりながら付け加えた公之だった。―残念なことに、彼が勇気をかき集めて紡ぎ出したひと言は、あまりにも小さな声だったため、公子には届かなかった。
―その虫の生命の重さを理解できる姫は真に心優しいひとなのだと思います。あなたは何も恥じる必要はない。
 その言葉は、公子の心に温かくひろがった。
 二十年間の生涯の中で、公子の虫好きを理解してくれた人は、公之ただ一人だったのだ。
―何も恥じる必要はない。
 漸く、そう言ってくれる人にめぐり逢えたそのことがただ涙が出るほど嬉しかった。
 女郎花の黄色が涙にかすむ。
 公子が感極まって何も言えないでいると、公之が眉を寄せた。
「どうしましたか? また何か失礼なことでも言いましたか」
 公子は滲んだ涙を指先でぬぐった。
「いいえ、私、嬉しくて。今まで私の虫好きを気味悪がった人はいても、そんな風に理解して下さった方は誰もいなかったのです」
「そうですか、私には虫と話したり、虫を愛でたりすることがそんなに悪いことだは、どうしても思えないのですがね。―それは辛い想いをされましたね」
 心からの労りのこもった言葉に、公子はもう涙が止まらない。涙が堰を切ったように溢れてくる。
「おやおや、私はまた姫を泣かせてしまったようだ」
 公之がおどけたように言うと、公子は泣き笑いの顔で応えた。
「これは哀しみの涙ではありません、嬉し涙ですから、お気になさらないで下さい」
 そっと涙を零す公子を公之はなおも見つめていたかと思うと、やがてその手が躊躇いがちに伸びた。
 次の瞬間、公子の身体は公之の逞しい腕に包み込まれていた。
 だが、公之に触れられても、公子は少しも怖くない。帝に触られたときのような嫌悪は微塵も感じない。むしろ、―はしたないことなのかもしれないが、こうしていると、どこにいるより守られていると、安堵することができた。
「何だか、怖いくらいに幸せです」
 公子の声が幾分くぐもっている。
 公之は公子の華奢な身体に腕を回したまま、穏やかな声音で応じた。
「私も幸せです。姫とこうして語らい、共に花を愛でる時間が今の私にとっては至福のひとときなのです」
 公之の言葉が途中でふっと途切れた。
 公子が訝しみ顔を上げると、公之の夜を集めたような深い瞳が真っすぐ見下ろしていた。
「だが、時々、私は不安になるのです。姫がなよたけのかぐや姫のようにある日、ふっと私の傍からいなくなってしまうのではないかと」
 その言葉には、幾ばくかの不安が滲んでいるように聞こえた。
 公子は微笑んだ。
「私はいなくなったりしません。―公之さまがここから出てゆけとおっしゃらない限りは。だって、私には、ここを出ても、どこにもゆくところはありませんもの」
「姫、一つだけお訊ねしても良いですか」