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虫めずる姫君異聞・其の三

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 紀伊家は藤原家のように政界で権勢を欲しいままにしてはいないが、代々、文章寮で活躍した学者や知恵者を出してきた名家として名を広く知られている。公之は早くに父を喪い、公明に引き取られて育った。紀伊家は洛外にも幾つか別邸を持つが、この宇治の別荘はその一つである。公之の亡くなった父―公明の弟がこの別荘の持ち主であったことから、父亡き後、息子である公之がそのまま後を受け継ぐ形となって今日に至っている。
 公之は長い間使用していなかったこの別邸をひそかに修理させ、何とか人が住めるような体裁に整え、公子をここに匿ったのだった。
 公之は定期的にこの別邸を訪れる。来れば、半日ほどはゆっくりとここで過ごし、その間、公子を相手に様々な話をするのが常であった。二人はお互いのことを少しずつ語った。
 公子もまた幼い頃の話に始まって、色んなことを話した。〝虫めずる姫君〟の物語の姫君のように虫が好きで、部屋で大人しく貝合わせをするよりは、庭に出て虫捕りをしていた方がよほど愉しかったこと。そんな自分が風変わりだと、世間からは変わり者扱いされ、〝今虫めずる姫君〟などと呼ばれるようになったこと。
 その話に、公之は愉快そうに笑いながら応えた。
―それなら、私と姫は似た者同士ということになりますね。私も学者の家の誉れ高い紀伊家に生まれながら、この体たらく、学問よりは武芸、書物を読むよりは剣を振り回すことが好きで、〝紀伊家の変わり者〟とよく大人たちからは呼ばれてましたから。
 また、公之は伯父公明を通して、左大臣家の姫君の話はよく聞かされていたのだとも言った。
―伯父はああ見えて、なかなか厳しい人です。滅多と他人を賞めないのですが、その伯父が姫のことはよく賞賛していました。女人にしておくのは惜しいほどの教養を備えていると。男子であれば、我が紀伊家の養子として迎え、自分の跡を継いで文章寮を任せたいほどだと申していましたよ。
 公明には妻との間に実子がいない。そういえば、公子自身も一度だけ、公明からそんなことを言われたことがあった。
―姫は婦人として、屋敷の奥深くに閉じ込めておくのは勿体ないね。姫が男子であれば、私は跡取りとして紀伊家に入って貰いたいと思うほどの博識家だ。
 公明は月に一、二度左大臣家を訪ね、公子に学問を授けてくれた。その合間に、ふと師が洩らした言葉を、このときの公子は、ほんの戯れ言にすぎないと聞き流していたのだけれど。
 二人の話題は互いの身の上話から始まり、多岐に及んだ。こんなにも誰かと話に打ち興じたのは、公子にとっては生まれて初めてのことであった。
 また、公之は、そういった雑談の中に大切なことを織り交ぜて、さりげなく都の近況を教えてくれもした。とはいっても、直接的な言葉で告げるのではなく、言葉を選んで必要なことを少しずつ話してくれた。そんなところも公之という男の優しさがよく表れていた。
 五ヵ月前の夜、公子が突如として宮中からいなくなった後、帝はしばらくは狂ったようにそのゆく方を追っていたらしい。公子を捕らえるために都大路を検非違使たちが物々しい様子でうろつき回っていたことなども、公之の話を通じて知ったことだ。
 しかし、いくら捜索しても、公子はこれこそ雲か霞のように姿を消してしまった。二、三ヵ月は執拗にそのゆく方を追い求めていた帝も流石に今は諦め、また以前のように禁裏の年若い女房たちと戯れの恋の花を夜毎、日毎咲かせ、華やかに浮き名を流しているという。
 左大臣―現在は関白太政大臣の要職にあり、更に内覧をも拝命した道遠は我が世の春とばかりに権力者としての栄華を極めている。その太政大臣家では、失跡から四ヵ月を経た先月、公子の葬儀がしめやかに執り行われた。道遠は我が娘は早々と死んだものと諦め、遠縁の娘を養女として迎え、近々、帝の許に入内させる算段だとも聞く。
―哀れにも、太政大臣の姫君は、鬼に攫われ、喰われてしまったというぞ。
 都の人々は声を潜めて、そう噂し合った。
 帝の寝所に召されたその夜、陵辱されそうになったところをあわや逃げた公子は、〝鬼に攫われ、姿をかき消してしまった〟と宮廷では取り繕った。まさか、帝を嫌った姫が閨から事の真っ最中に逃げ出したのだとは、帝の体面上も口にはできない。むろん、その夜、禁裏に居合わせた人々は皆、真相を知ってはいたけれど、表立ってそれを話す者はいなかった。
―可哀想なことだ。それにしても、内裏には天子さまがお住まいで、陰陽博士たちが術を駆使して結界を張っているというではないか。卑小な魔物はおろか、怖ろしい鬼だとても寄せ付けぬ結界が幾重にも張り巡らされていて、天子さまの御身をお守りしていると聞くが、その内裏から天子さまのお妃が鬼に攫われるとは、最早、世も末だなあ。
―その厳重な結界の隙間をくぐり抜け、姫君を攫ったほどの鬼だ、さぞ怖ろしい力を持つ鬼なのではないか。
―そんな物凄い力を持つ鬼がこの都に潜んでいるのかと思うと、身の毛がよだつ。ああ、くわばら、くわばら。
 都人たちは寄ると触ると、そんな噂をして震え上がった。
 それは女御失踪を隠蔽するために故意に流された噂ではあったものの、人々はそれを頭から信じ、恐怖に打ち震えた。そのため、人心が大いに乱れ、宮廷では高僧を集め、悪鬼調伏、国家平安の祈祷を大々的に行わなければならないという事態にまでなった。
 公子から見れば、そんなことは所詮は、苦し紛れの茶番でしかないけれど、そこまで大がかりな仕掛けをしなければ収束できないほど、事は複雑になってしまったということに相違ない。
 それにしても、我が父ながら、道遠の変わり身の速さというか、諦めの良さには感心するやら呆れるやらであった。今にしてみれば、帝が閨で囁いた言葉の数々は少なくとも、父に関してだけは嘘ではなかったのだと納得できる。
―そなたは実の父に売られたのだ。
 あの夜、帝はそう言ったが、まさに、そのとおりであったのだろう。父は長年、太政大臣の地位と万機を決する権限を持つ内覧の立場を欲していた。内覧の職務にある者は特に宣旨を受け、天皇に奏上すべき公文書を内見し、政務を代行する権限を持つ。
 しかし、天皇親政を主張する帝とは反りが合わず、帝は玩具を欲しがる子どもをじらすように、道遠にそれらをくれてやらなかった。
 そこに長年渇望した餌をちらつかせ、その餌を条件に公子を差し出せといえば、父は一も二もなく投げられた餌に食いついただろう。全く、頭の切れる、怖ろしい男だ。それだけの謀をめぐらせる頭があるのであれば、その知力を今少し政に活かし反映させれば良いのにと公子などは思うが、帝はただ策略やその己れが張り巡らせた陰謀で他人を陥れるのが好きなだけだ。
 まるで将棋の駒を自在に動かすように、人の人生や運命を操り弄ぶのが好きなのだ、あの帝は。そのために、策略を練ることと、何の実もない偽りの恋、それがあの男の生きるすべてであった。
 今なら、公子は、かつて己れの置かれていた状況がかえってよく見える。渦中に身を置いていたときは何も見えず、ただただ運命に翻弄されるだけであったのに、少し距離を置いて眺めただけで、かつての自分やそれを取り巻く状況が冷静に客観的に理解することができた。