虫めずる姫君異聞・其の三
「はい、〝落窪物語〟―、とても面白うございましたわ」
「それは良かった。当代きっての博識家と評判の姫に女子どもの読む草紙物語なぞお持ちしても、つまらないと思われるのではと心配していたのですよ」
「いいえ、とても面白くて、刻の経つのも忘れてしまいます。正直に言いますと、実は昨夜もずっと眠らずに起きて読んでおりましたの。それで、つい、今頃になってうたた寝をしてしまったのです」
「それは良かった。しかし、お寝(やす)みにならないで一晩中、物語を読んでいたというのは、あまり感心できませんね」
公之が軽く睨むと、公子はまた頬を赤らめてうつむいた。
「ごめんなさい、これからは気をつけますわ」
〝落窪物語〟は、継母に苛められる貴族の姫君の話である。紆余曲折はあるものの、姫君は最後には両想いになった恋人とめでたく結ばれ、幸せになるという物語だ。
この頃、都ではこの〝落窪物語〟が貴族の女性たちの間で大人気だという。
「本音をいえば、姫のお好きな漢籍などをお持ちできれば良いのですが、何しろ、伯父の手前、あまりあからさまに書籍を持ち出すことはできませんからね」
当代きっての学者と名高い文章博士紀伊公明は、何を隠そう、この公之の伯父になる。公子自身、この公明にずっと師事していたゆえ、最初に公之からその話を聞いたときは、偶然とはいえ師匠の甥に助けられたことに随分と愕いたものだ。
紀伊家は代々、学者の家柄で文章博士を輩出してきている。だが、公之自身は幼時から学問よりは武芸に興味を持ち、机に向かうよりは専ら庭で刀や弓を手にしている方が性に合っていたのだと、これは公之当人が笑いながら話したことである。
―私はいわば、紀伊家の落ち零れですよ。
自嘲気味に言う公之ではあるけれど、十八で従五位蔵人に任じられ、蔵人所での働きと有能さが認められ、三年前、四位・蔵人頭に抜擢されたという経緯を持つ。禁裏ではその官職にちなんで〝頭中将〟と呼ばれていた。
ちなみに蔵人所とは帝と密接な繋がりを持ち、常に帝の近辺に侍り、帝のご意思を各方面に伝え、逆に、廷臣たちの奏上を帝に伝えるという役目を持つ(伝宣・進奏)。いうならば、帝と外部との間を取り持つ仲介役のようなものである。
また儀式・その他宮中の大小の雑事を掌る。ゆえに蔵人自体はけして上位の官職ではなかったものの、常に帝の近くに控え、帝とも親しく話をしたりすることから、重要かつ官吏たちにとっては憧れの役職と見なされていた。
公之は公子の前でも帝の話はしない。仕事で帝の御前に出ることも多い公之ではあるが、公子と帝の複雑な拘わりを何よりもよく知る彼は、けして公子に帝の話について触れようとはしなかった。
公之自身が帝を仕える主人として、どのように見ているのかは判らない。ただ、帝その人を尊敬しているというよりは、蔵人所の仕事をするのが自分の仕事だからと割り切って、極めて淡々と日々の務めをこなしているように見えた。
公之は伯父の公明にすら、公子をこの宇治の別邸に匿っていることを打ち明けてはいない。思慮深い公明であれば、万が一知れても、情報を帝や公子の父道遠に横流しはしないだろうが、やはり、公之にすれば、できるだけ伏せておいた方が良いと言う。それに、これは口には出さないけれど、もし、この秘事が露見した際、伯父までに累が及ぶのを怖れているに相違ない。
帝の想い人、寵愛の女御を攫い、己が別荘に隠した―、それだけではや帝に対する不敬罪に値する。もし人の知るところとなれば、公之はただでは済まないだろう。つまり、公子は公之にそれだけの犠牲を強いているということになる。それを考える時、公子は申し訳なさで居たたまれなくなる。
しかし、現実として、公子はどこにもゆく当てもなく、寄る辺なき身であった。公之に危険なことをさせていると知りながら、こうして手をこまねいているしかない。
それでも、公之は公子に対する気遣いを忘れない。伯父の公明の住まいには古今東西から集められたありとあらゆる本が蔵書として保管されている。公之は伯父の許から公子の気慰みにと本を持ち出し、訪れるときには大抵、何冊かの本を持ってきてくれた。
「それでなくとも、これまで書物なぞにとんと興味のなかった私が頻繁に本を借りてゆくものゆえ、伯父上は何かあると怪しんでいるようです。ましてや、漢籍など持ち出せば、何か勘づかれないとも限らない。まあ、女子どもの読むような他愛もない物語であれば、伯父もまさか、姫がお読みになるのだとは思いもしないでしょうからね」
どうやら、公明は、甥に最近、通う恋人ができたのではないかと思い込んでいるらしい。その恋人がしきりに今、都で大流行している〝落窪〟を読みたいとせがむので―などともっともらしい言い訳をし、伯父の誤解を良いことに、公之は伯父の許からせっせと草紙を持ち出していた。
「本当に公之さまには何とお礼を申し上げて良いのか判りませぬ。これほどまでに良くして頂きながら、何のお返しもできない我が身が口惜しくて情けなうございます」
公子がうつむくと、公之は真顔で首を振った。
「何を愚かなことをおっしゃるのです。また、以前のようにここを出て尼寺へゆくなぞと言われるのではないでしょうね」
少し前、公子は公之にここを出てゆくと告げたことがあった。いつまでも公之の懸かり人としてこの別邸に居候させて貰うのも心苦しかったし、何より公之が咎人になることを怖れたのだ。この宇治には幸いにも、昔、民部卿宮であった先々帝の皇子の北ノ方、つまり正室が落飾して尼となって庵を結んでいると聞く。もうかなりの高齢だというが、いまだに健在で一人住まいをしている。その尼君の許に身を寄せてみようと考えたのだけれど、それを聞いた公之は珍しく顔色を変えた。
―姫は私に無用の負担をかけまいとそのように仰せられているのやもしれませんが、私にとっては、はなはだ心外な話です。私は万が一、事が知れても、一向に構いはしませぬ。あの夜、あの場所で姫とお逢いしたのも何かのご縁―御仏のお導きでしょう。それに、もし、そうなったときには、この生命に代えましても、姫は逃して差し上げますから、どうかお心安らかにここでお過ご下さい。
その頼もしい言葉に、公子は嬉し涙が滲んだ。公之は打算や損得勘定をして、公子を匿っているわけではない。いや、むしろ、己れの立身と保身のためであれば、公子を帝に差し出した方が公之のためにはよほど良いに違いない。それでも、公之は敢えて重罪人となる危険を冒してまで、公子を助けてくれようとしてるのだ。そのことが公子には嬉しく、公之の優しさが身に滲みた。
公子がこの宇治の別邸に住むようになって、既に半年近くを経ている。
都を出るときは桜が咲き初める頃であった季節も春から夏、更に秋へとうつろっていた。
作品名:虫めずる姫君異聞・其の三 作家名:東 めぐみ