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虫めずる姫君異聞・其の三

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 物語の中で姫君は親に命じられ、意に添わぬ結婚をさせられそうになる。失意と悲嘆の淵に沈む姫君の許に、颯爽と現れるのは大抵、若くて謎めいた公達であった。姫君はその公達と共に手に手を取って遠くへと逃げる。
 物語の最後、屋敷の奥深くで泣いていた姫君は迎えにきた恋人に背負われ、夜の闇の中を逃れてゆくのであった。
 そして。姫君は恋人と妹背となり、いつの世までも連理の枝、比翼の鳥となって睦まじく幸せに暮らすのだ。
 むろん、公子は我が身が絵物語の姫君のように美しくもないし、魅力的でもないと知っている。けれど、こうして見も知らぬ男の背中に乗って夜の闇の中を駆け抜けていると、今だけは自分があの絵物語の幸せな姫君になったような気がした。
 せめて今だけは夢見ていたい。夢を見させて欲しい。
 公子は、躊躇いがちにそっと男の肩に頬を押しつけた。ひんやりとした夜風が公子の頬を撫で、髪を揺らす。
 深い疲労が眠気を誘う。春の夜風に優しくあやされ、公子はいつしか、うとうとと深い眠りに落ちていた。
 眠りの中で、公子はまた夢を見ていた。
 夢の中でも公子は風と化していた。
 逞しい男の背中に背負われ、夜の中を風のように疾駆してゆく。
 深い夜の闇が果てなく続く向こうには、きっと明るい朝が待っている。やがて遠からず長い夜は明け、眩しい朝陽が見えることだろう。
 夢の中、公子は確かに夜の向こう―自分たちがひた走るゆく手にひとすじの光を見出していた。
 二人は風を切り、夜のただ中を駆け抜けてゆく。―それは、幸せな夢だった。
 夢の中で風となり、公子は笑っていた。
 嬉しげな笑い声が夜の闇に響き渡る。
 眠りながら、公子は夢の中の自分の笑い声を聞いていた。
 そして、これが、紀伊公之(たかゆき)と公子の運命的な出逢いであった。

 伍の巻

 遠くから、せせらぎの音が聞こえてくる。
 公子は夢の中で、その川の流れる音に耳を傾けていた。
 公子の回りには一面の白い花が揺れている。懐かしいこの花は、そう、雪柳。
 公子が生まれ育った左大臣家の庭にも咲いていた。
 風が吹く度に、たっぷりと花をつけた枝が水底(みなそこ)の藻のようにそよぐ。頭上高くで小鳥の鳴き声が響き、公子は空を見上げた。
―あれは何の鳥かしら。
 そんなことを考えながら、鳥の囀りに耳を澄ませてみる。
 優しいせせらぎは昔、眠りに落ちる前に乳母が聞かせてくれた子守唄に似ている。
 こんなに穏やかな心持ちになれたのは、久しぶりのような気がする。満ち足りた気持ちでなおも鳥の唄とせせらぎの音に聞き入っていた。

 めざめは突然、訪れた。
 意識がゆっくりと浮上してゆくような感覚があり、次いで深い水底から突如として陸(おか)へと引き上げられたような気がして、公子は眼を開く。長い翳を落とす睫が細かく震え、黒眼がちな大きな瞳がぱっちりと開いた。
 ぼんやりとしていた視界の中で、徐々に周囲の景色が明確な形を取り始める。撫子と萩の描かれた几帳が眼に入り、けして広くはないけれど気持ちよく整えられた室内が見えてくる。贅を凝らしたとはいえないまでも、いかにも女人の住まいらしく、こざっぽりとした中にも華やかさのある作りだ。
 公子は自分が文机にうつ伏せて微睡んでいたことに気付く。どうやら、草紙を読み耽っている最中に、うたた寝をしてしまったらしい。
 公子は更に手前に誰かがいるのを認め、ハッと我に返った。もしや―、都からの追っ手ではと、緊張を漲らせた公子の耳に、もうすっかり聞き慣れた男の声が心地良く響く。
「済まない。折角お昼寝なさっていたところを起こしてしまったかな」
 この男(ひと)の声を聞くと、どんなに不安に苛まれているときでも安心できる。親鳥の大きな翼に抱(いだ)かれた雛鳥のように安らいでいられる。
 途端に公子の身体中の力が抜けてゆく。
「おいでになっていらっしゃましたの?」
 公子が言うと、男は微笑んだ。
「ええ、かれこれ四半刻前にこちらに着きました」
「申し訳ございません、私ったら、公之さまがおいでになられたのも知らずに、ずっと眠っていたのですね」
公子は申し訳なさで一杯になる。
 都からはるばるこんな場所まで訪ねてきてくれた公之にも済まないと思うし、十日に一度ほど訪れる公之の貌を見るのが今ではいちばんの愉しみになっている。ほんの少しの時間でも多く公之の貌を見ていたいと思ってしまう。
 むろん、そんな胸の内を当人の前で打ち明けることはできないけれど。
「いや、姫の可愛らしい寝顔をずっと飽きもせずに眺めていたゆえ、お陰で有意義な時間を過ごせました」
 その科白に、公子の頬がうっすらと染まった。
「酷い、私、きっと変な顔をして眠りこけていたのではないですか? 起こして下されば良かったのに」
 寝顔を公之にずっと見られていたのかと思うと、あまりの恥ずかしさに消え入りたい心地になってしまう。
 公子が恨めしげに言うと、公之は声を立てて笑った。
「そんなことはありません。とても魅力的な可愛い寝顔でしたよ」
「あのう、何か寝言などは申しておりませんでしたか?」
 公子が少しの逡巡の後、訊ねると、公之が少し意地悪げな表情になった。
「うーん」
 と、これはわざとらしく両の腕を組んで思案顔になるのに、公子は不安げな顔で公之を見つめる。
「そうだな、そう言えば、何か言っていたような」
 思わせぶりな口調で言い、ちらりと公子を一瞥する。
「私、何を言っていたのでしょう?」
 公子が固唾を呑んで次の言葉を待っていると、公之が勿体ぶって言う。
「ああ、思い出しました。姫は確か、私のことが好きだとか何とか、そんなようなことをおっしゃっていたように思います」
「えっ」
 公子が固まった。先刻以上に、もう見ているのも可哀想なくらい真っ赤になる。
「私がそんなことを寝言で―?」
 公之が来たのにも気付かず眠りこけていて、その上、そんな馬鹿げた寝言を口走っていたなんて―。恥ずかしくて、死んでしまいたいくらいだった。
 身の置き場もない心地で、あまりの恥ずかしさにじんわりと涙さえ出てきた。
「姫、もしかして―、泣いているのですか?」
 公子の涙に気付いた公之が狼狽える。
「いや、姫。今のはほんの悪戯心を起こしたまでのこと、まさか姫が本気になさるとは思わなかったのです。今の言葉は全部出任せですよ、だから、どうか泣くのは止めて下さい」
 根が正直な公之は、公子の涙を見ただけで慌てふためいている。正直者のくせに、こうやって公子をからかっては泣かせてしまうのは公之の悪い癖であった。
「本当に? 本当に私、何も言ってなかったですか」
 公子がなおも疑わしげに訊ねると、公之はコクコクと幾度も頷いた。
「大丈夫、ご安心下さい。姫は何も寝言なんかおっしゃっていませんでしたよ。その、今の科白は私の願望というか夢のようなものでして」
「え―?」
 公子が小首を傾げると、公之は曖昧な笑みを浮かべた。
「いや、良いのです。つまらない独り言ゆえ、気になさらないで下さい。それよりも、私がお持ちした草紙はいかがでしたか?」
 唐突に話題を変えた公之の不自然さにも気付かず、公子は頷く。