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虫めずる姫君異聞・其の三

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「―あなたは、主上の想い人、梅壺女御さまでいらっしゃいますね?」
 確認するように問われ、公子はこれにもまた小さく頷く。この男に今更隠し立てしても何の意味もないと思ったからだ。
 と、はるか向こうで人声が聞こえた。
 男がそれに気付き、咄嗟に紙燭の火を吹き消した。
「どうやら他の追っ手もこちらに近付いているようですね」
 公子は唇を噛んで、うなだれた。
 やはり、我が身は天に見放されたのか。
 このまま、あの卑劣な男の許に連れ戻されてしまう運命なのか。そう思うと、口惜しさと絶望に居たたまれなくなる。
「お願いでございます。私をここから逃して頂けませんか。ここを出れば、私は一人でいずこへなりとも参ります。あなたにはけしてご迷惑はかけませんゆえ、どうか、どうか」
 頼みの綱はこの眼の前の男だけである。
 公子は藁にも縋る想いであった。
 男の視線がわずかに泳いだ。
 それも道理だ。ここで今、公子を逃がしたことが露見すれば、男は畏れ多くも帝を欺いた罪を着ることになる。公子にとって男が見ず知らずの他人であるように、男にとってもまた公子はゆきずりのただの女にすぎない。何もその女のために自分のこれからの一生どころか生命を賭ける必要はない。
 男の視線が落ち着きなく彷徨う。その視線が公子の全身を辿った。咄嗟に直したものの、胸許は大きく開き、白い乳房が見え隠れしている。横座りになった夜着の裾が僅かに捲れ、白い脚が夜目にも眩しかった。
 しかし、取り出している公子には、男の眼が自分の身体に向けられていることには気付いていない。男が黙り込んでいることが、何よりの返事だ。自分はほどなくあの男の許に連れてゆかれるのだろう。そう思うと、怖ろしさに身が竦む。
 やがて、男の眼に公子の夜着の至る所の綻びが映った。片袖は無惨に取れかかり、あちこちに乱暴に引き裂かれたような場所がある。帯も緩んで、それは何とも哀れな姿であった。白い首筋や開いた胸許に紅いアザが幾つも刻まれている。恐らくは強く吸われた跡に違いない。これだけでも、この娘が今宵どれほどの辛い想いを味わったのかは想像に難くない。
 娘の抵抗に遭った帝がどれほど苛立ち、娘を乱暴に扱ったかは察せられた。何しろ、廷臣たちの間でも帝の女好きは有名だ。一度眼を付けた女は執拗に追いかけ回し、手に入れた後は閨で責め立てることは知れている。
「あなた一人で、ここを出てどうするというのですか?」
 唐突に訊ねられ、公子は眼を伏せた。
「それは―、まだ判りません」
 本当にどうすれば良いか判らない。
 父の許に帰ろうかとも一瞬考えたのだけれど、当然ながら、帝は道遠の屋敷に公子が戻る可能性は高いと読んでいるだろう。そんな場所にのこのこと姿を見せれば、捕まえてくれと頼んでいるようなものだ。それに―、帝の言葉をそのまま信じたわけではないが、帝が公子の女御入内の話を持ちかけた時、父はあっさりと承知したという。しかも、かねてからその地位に就きたいと渇望していた太政大臣の地位と内覧の宣旨を手に入れるという条件と引き替えに。
 もし、公子が屋敷に戻ったとしたら。そんな父であれば、帝に自ら進んで公子を差し出さないとも限らない。
 だが。
 あの優しい父が本当に己れの立身のために自分を帝に差し出したのだろうか。公子には、いまだにまだ父の仕打ちが心からのものだとは信じられない。
「とかにく、私と一緒においでなさい」
 男は公子に手を差し出した。公子は少し躊躇った後、その手をそっと掴んだ。
 今は悩んだり逡巡している暇はない。これから先のことはまた考えれば良いのだ。今は一刻も早く、ここを逃れることが肝要である。
 しかし、立ち上がった刹那、公子は小さな呻き声を上げ、蹲った。
「どうしました?」
 男が気遣わしげに公子の貌を覗き込む。
 公子は右脚を押さえ、小さな声で言った。
「脚が痛くて。立とうとしても立てないのです」
 どれ、と、男は公子の夜着の裾を少し捲り、そっと触れた。
「少し熱いな。どうやら、挫いたようですね」
 多分、廊下から落下した際に挫いたのだろう。公子が暗澹とした想いに駆られていると、男がすっと前を向き、跪くと背中を見せた。
「さ、お乗りなさい」
「でも」
 躊躇う公子を男は器用に負ぶった。
「走りますよ」
 男が囁き、走り出す。
 それは、あたかも自分が男と一体となり、風となって夜を駆け抜けてゆくような感覚だった。
「重くはありませんか」
 公子が耳許で遠慮がちに問うと、男は屈託なく笑った。
「何のこれしき、私は今でこそ文官を務めていますが、任官する前は武官に憧れて武術の鍛錬に明け暮れていた時期があったんです。あなたのようなか弱い女性一人くらい背負って走るのなぞ、何ほどのこともありませんよ。心配しないで下さい」
 それでも、流石に途中からは走るのを止め、脚取りはゆっくりとしたものになった。
「あの、私なら大丈夫です。一人で歩けますから」
 公子が男の負担を考えて控えめに言うと、男は首を振る。
「気にしないで。それよりも、ここら辺に外へと通じる抜け道があるはずです」
 男は廷臣ゆえ、宮中のことには詳しいらしい。慣れた様子で公子を背負い、夜の闇の中を灯りも付けずに確かな脚取りで迷わず歩いてゆく。
 いかほど歩いただろう、ふいに突き当たりに遭遇した。宮中の庭をぐるりと取り囲んだ長い築地塀にそこだけ、ぽっかりと穴が開いたように隙間ができている。人ひとりがやっと通り抜けられるほどのその破(や)れ間に、男は公子を背に負うたまま難なく身をすべらせた。
 そのほんの小さな、ささやかな空間は、公子にとっては自由な世界に通じる入り口でもある。
 かすかな期待と大きな不安を胸に、公子は男に背負われ、外の世界へと飛び出す。
 築地塀の向こうは、無限の闇がひろがっている。夜も更けた頃とて、都大路には人影どころか、犬の子一匹見当たらない。
 昼間は陽の光を嫌い、闇に潜む魔物が人の世界に彷徨い出でくる時間帯でもある。およそ深窓の姫君が出歩くような時間ではない。
 公子は眼の前に続く闇を見つめ、一瞬、心細さを憶えた。自分一人では、こんな人気のない道に放り出されてしまったら、きっと泣いてしまうだろう。幾らしっかりした姫だとはいえ、所詮は左大臣家の姫として大切にかしずかれて育った身なのだ。
 だが、自分の眼の前にある男の広い背中を見ていると、その心細さも薄れてゆくようだ。初めて出逢った相手なのに、何故か、不思議な懐かしさを感じる。男の思慮深げなまなざしには優しさの光があり、見る者を安心させ、包み込むような力があるような気がした。
 本当はどこの誰かも判らぬ男をむやみに信用しない方が良いのかもしれないけれど、好色な帝の餌食になりかけていた公子に救いの手を差しのべてくれたこの男は、いわば恩人であった。
 それに、こんな優しげな瞳を持つ男が他人を騙したりするような類の―悪人だとは、どうしても思えなかったのだ。
 禁裏の外へと出た男は再び走り出した。
 走る、走る。
 今夜、初めて逢ったばかりの男に背負われて深い夜の底を疾駆してゆく自分が、何か現の中のこととも思われない。まるで、少女の頃に読んだ恋物語の中の姫君のようだ。