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虫めずる姫君異聞・其の二

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 だが、公子はただ優しいだけの姫ではない。あの姫もまたなよやかな外見には似合わず、内に焔のような烈しさを秘めている。厭なものは厭なことと、はっきりと口にする性格だ。生まれつき残忍で酷薄な性格を持つ帝とは何があっても相容れることはないだろう。恐らく、公子は帝のことを嫌っている。残念なことだけれど、それは帝の母である安子にも判った。
「何のお話にございましょう」
 空惚けた表情で返すのに、安子は小さな吐息をつく。
「左大臣の姫のことですよ。もう良い加減に屋敷に戻しておやりになったら、いかがです? 左の大臣もさぞ心配していることでしょう。主上もよくご存じのことかとは思いますが、あの方はなかなか侮れぬ方にございますよ。こちらの味方に付ければ万の味方を得たに等しき頼もしい方にございますが、ひとたび敵に回せば、怖ろしい方。たとえ、主上が血縁状は甥であろうと、尊い御身であろうと、あの方にはそんなことは何でもありません。情け容赦なく踏み潰してしまおうとするでしょう」
 帝がニヤリと口の端を引き上げた。
「それでは、私のこの厄介な性格も実は、伯父上に似たのかもしれませぬな」
 確かに、そのとおりかもしれない―と、安子は思った。帝の父、つまり先帝はただ大人しいだけの凡庸な男で、やはり藤原氏と濃い血の繋がりで結ばれていることから、外戚である関白家の言いなりだった。そんな良人を安子はどれほど物足りなく思ったことだろう。
 たとえ藤原氏直系の娘とはいえ、一度嫁せば、安子は天皇家の人間だった。実家よりも良人や我が子を何より大切なものだと考えてきたのだ。先帝との間に生まれた道明親王―つまり帝は実父である先帝よりも伯父道遠に似ている。端整な顔立ちだけでなく、上辺と中身が全く違う、その怖るべき気性さえも。
 帝も艶やかな美貌を誇り、穏やかな物腰で、外見だけを見れば申し分のない貴公子だ。道遠が温厚篤実な外見と挙措ですべての者を魅了し、従わせずにはおれない圧倒的な存在感を持ちながらも、己れのためなら手段を選ばず、どこまでも酷薄になれるという素顔を持つのと酷似している。
 反目し合うこの伯父と甥は、実はとてもよく似ている。いや、こちらは公子と帝とは対照的で、似ているからこそ余計に反発し合うのだろう。
「俺だって、別にあの男を伯父だなんて思ったことは一度もありませんよ。ですから、安心も油断もしておりませんから、どうかご安堵下さいませ。母上」
「それならば、尚更、姫を一日も早く左大臣の手許にお返しなさいませ。今はまだ表立って何も申してはきておりませぬが、いずれ、姫を帰せと催促してきますよ。姫が私の見舞いにきて体調を崩して、伏せっている―、そんな苦し紛れの言い訳がいつまで通用するとお考えになっていらっしゃるのですか」
 安子の言葉に、帝は含みのない笑みを浮かべた。
「いえ、そのことならば、何も母上がご心配なさることはございませぬ。打つべき手はちゃんと打ってありますゆえ」
「打つべき手―?」
 安子が訝りながら訊ねると、帝は鷹揚に頷いた。
「さようにございます」
「それは、どういうことにございましょう」
 帝は母君の顔を見て、嫣然と笑った。
 こうして見ると、男性でありながら、妖艶なという形容がまさにピタリと当てはまる類稀な美貌の持ち主であることが判る。
「左大臣にはもう私の方から接触していますよ」
「まさか」
 安子は愕きの表情を隠せない。
 その母の反応すらを愉しむかのように、帝は艶めいた笑みを湛えたまま続ける。
「望みのものを手に入れるため、我が目的を遂げるためには手段を選んでいてはいけない―、他ならぬあの男が私に教えてくれたことですから」
「一体、左の大臣に何とおっしゃったのですか!?」
 安子が悲鳴を上げるように叫ぶ。
 帝が凄艶な微笑を刻んだ。酷薄ささえ口許に漂わせて。
「餌を撒いてやりました」
 緊迫した雰囲気が母子の間に満ちる。
「餌?」
 帝は安子の眼を見て、もう一度口の端を引き上げた。
「あの男が喉から手が出るほど欲しいものと引き替えに、姫を寄越せと言ってやったのです」
「それで―、左大臣は何と?」
 安子が力ない声で問う。
 帝が嗤った。
「母上、俺はあの男がもう少しは人らしい情のある男かと思うておりましたが、どうやら、俺の見方は甘かったらしい。何も姫を無理矢理こちらに引き止めておくという回りくどいやり方などせず、最初から言えば良かったのです。姫を私にくれ、と」
「―」
 最早言うべき言葉を持たない安子に、帝は口許を綻ばせた。
「左大臣はたいそう歓んでおりましたよ。それはそうでしょう。長年望んでいた正一位太政大臣・内覧の宣旨をやっと手に入れることができたのですからね。おまけに、一生嫁ぐことも叶わぬと諦めていた一人娘が何と幸運にも俺の眼に止まった。これで入内した娘が俺の子でも産めば、あの男は次の帝の外祖父となる。まさに、これまで連綿と続いてきた藤原氏のやり方の真骨頂じゃないですか。こんなにあっさりと姫を手放すのを承諾するのであれば、もう少しじらしてやっても良かったのですがね。あ奴は呆気ないほど早く俺のの投げた餌に食いついてきましたから、俺としては少し物足りないくらいだった。俺としては、ま、あの男を少し買い被りすぎていたというところでしょうか。俺はてっきり、あ奴が俺の申し出を拒絶し、娘を帰せというものだとばかり思っていましたからね。―どうやら、左大臣は可愛い娘よりは自分の保身と立身の方が大切らしい」
 吐いて捨てるような口調には、左大臣道遠への侮蔑がありありと窺い取れる。
 たとえ臣下の関係とはいえ、二人は血の繋がった、れきした伯父と甥であろうものをと、安子は哀しくなった。
「さりながら、主上、姫の―公子どののお気持ちは、どうなさるおつもりにございますか?」
 流石に母である安子もあの娘が帝を嫌い抜いている―とは言えない。
 しかし、帝は事もなげに言い放った。
「姫の気持ち? そのようなものは一切拘わりありません」
「ですが、主上」
 言いかけた安子の言葉に覆い被せるように帝は不遜な物言いで言った。
「俺はあの姫が昔から気に入っています。恐らく、俺の初めて好きになった娘でしょう。ずっと欲しくてたまらなかったその姫が漸く手に入るんです、姫の気持ちなどこの際、関係ありませんよ。従わなければ、従わせるまでのことです」
「あの姫は、あなたのお相手が務まるような娘ではございませぬ。公子どのは、主上とはあまりにも違いすぎる。きっと、互いに―姫だけでなく、主上ご自身も不幸になりますよ。今からでも遅くはありませぬ。どうか、左大臣の屋敷に帰し、そっとしておいておやりなさいませ」