虫めずる姫君異聞・其の二
あんな男には絶対に弱みを見せては駄目だ。とにかくこうなったからには、父が迎えを寄越してくれるのを待つしかない。今一つの頼みの綱は叔母の皇太后安子の存在だけれど、こちらにも幾ら逢わせて欲しいと頼んでも、逢わせて貰えないのが現状であった。
公子は、くすんと鼻をすすり、滲んだ涙をぬぐった。何もすることもなく、何をする気にもなれない。再び掛け衾を頭から引き被り、布団に潜り込んだ。
泣きながら、公子は夢を見た。
夢の中では、公子は懐かしい我が家に帰っていた。公子の部屋の前栽には雪柳が今を盛りと咲き誇っている。
公子は微笑みながら、その可憐な花を見つめていた。
優しい春風がそっと花を揺らし、公子の髪を撫でてゆく。雪のように舞い上がる花びらがはらはらと散り零れ、地面を隙間なく覆い尽くす。
夢のように美しい光景だ。
これが真に夢ならば、ずっと醒めないで欲しい。
公子は心の中で願いながら、満開の雪柳をいつまでも眺めていた。
確かに、人並みに恋に憧れる気持ちもあったし、もし我が身が健やかで、子どもを産めるちゃんとした身体であればと悔やんだこともあった。女として我が子を産んで、この腕に抱いてみたいと思ったことも。
けれど、それは大嫌いな男と結ばれるためではない。心から慕い、愛せる男とめぐり逢いたいと望んだことはあっても、意に染まぬ結婚をして、好きでもない男の妻になるようなつまらない一生を過ごすよりは、このまま不具者と呼ばれて独り身で過ごす方がはるかにマシだと考えて今日まで生きてきたのだ。
夢の中で咲き誇る花を眺めながら、雪のように降る花びらを浴びながら、公子は泣いていた。
泣きながら眠る公子の頬には幾筋もの涙の跡がある。
屋敷の庭の雪柳は今頃はもう、殆ど花を落としているのだろう―。
その日の夕刻、清涼殿の帝の御座所(おまし)では皇太后安子が美しい眉をひそめて座っていた。
帝は母君の当惑など素知らぬ顔で対峙している。
「一体、主上は何をお考えなのですか」
安子は我が生みし子でありながら、今ではあまりにも遠く隔たってしまった帝を見つめた。途端にやるせない気持ちが胸の奥底から湧き上がる。
昔は、こうではなかった。物心つく前、まだほんの二、三歳の頃は素直で愛らしい子どもだったのに。それが、いつからこんな風になってしまったのだろうか。記憶の糸を手繰り寄せてみても、いつ何をきっかけにして我が子がこんなにも変わってしまったのか、安子には思い付かない。
ただ、一つだけいえるのは、帝の攻撃的な性格がはっきりと表に現れたのは即位して一年ほど経った頃からだ。丁度、四歳の誕生日を迎えたばかりの日、こんなことがあった。
帝を伴い、兄である左大臣藤原道遠の屋敷に渡ったことがある。もとより公式の訪問ではなく、供回りの者も数人のお忍びであった。
あの日、帝は一つ上の従姉と初めて対面した。肩で切りそろえた振り分け髪も愛らしかった公子は、帝の良い遊び相手になるであろうと安子は期待していた。
ところが―。二人が庭で遊び始めてほどなく、庭からけたたましい子どもの泣き声が響き渡った。
帝の乳母がすわ何事かと慌てて庭に降りたところ、幼い帝がその場に蹲って泣いている。乳母が訊ねてみても、四歳の帝はただ泣きじゃくっているばかりで、何も応えない。
その傍らで五つになった公子が所在なげに立ち尽くしていた。困り果てた乳母が公子の方にどうしたのかと訊ねた。
公子は困った表情で乳母にポツリと呟いた。
―主上が突然、泣き出してしまわれたの。
どうやら、幼い公子には帝が突如として泣き出した理由が皆目見当もつかないようだった。
乳母は何げなく視線を動かし、ヒッと小さな悲鳴を上げた。脚許に小さな虫が無惨に踏み潰された状態で転がっている。どうやら、毛虫のようであった。
帝が小さな身体を震わせながら、乳母に抱きつく。怯えているのだろう、まるで瘧にかかったように身震いしている。
―あの子は、おかしい。変わってる。あんな薄気味の悪い虫を可愛いっていうのだ。それで、私が踏み潰してやったら、怒るんだ。
その傍で二人のやりとりを聞いていた公子がムッとした顔で言い返す。
―虫だって、ちゃんと生きているのに。いきなり踏み潰して殺してしまうだなんて、可哀想だわ。
乳母は急いで事の成り行きを母后に伝えた。安子は幼い二人を傍に呼び寄せ、もう一度話を聞いてみたが、乳母の報告と内容はほぼ同じであった。
―毛虫なんか汚くて、気持ち悪いじゃないか。
帝が頬を膨らませて言うと、安子は微笑んだ。
―主上、確かに毛虫は見ていて気持ちが良いものではございませぬ。ただ、生命あるものをむやみに殺すのは確かに良きこととは申せませぬ。殊にこの国を統べる御身でおわせば、たとえ虫とはいえ、生きとし生けるものには皆、おしなべて等しき情を注がねばならぬこと、ゆめゆめお忘れなさいませぬよう。今後は、そのような無益な殺生はなさいませぬように。
帝は流石に安子の諭しには逆らわず、不満げに黙り込んだ。
その時、安子はハッとした。
帝が公子を憎しみに満ちた眼で睨みつけていたのだ。まだ四歳の頑是ない童ながら、そのあまりにも烈しいまなざしに安子でさえ、ゾッとしたほどであった。
その出来事は鮮烈な記憶となって、安子のの中に刻み込まれた。
帝は三歳で即位し、常に周囲には大人ばかりという環境で生い立った。しかも、自分よりもはるかに年上の彼等は帝の臣下であり、表立って帝に逆らうことはない。良い歳をした大の大人が幼児に向かって這いつくばり、平伏し、礼を取る。それが当然と思い込んで育ってきたのである。誰もが自分の言葉に素直に従うものだと信じ込んでいるのに、虫を殺したことを面と向かって公子に詰られた。これまで甘やかされて育った我が儘な帝には、そのことが我慢ならなかったに相違ない。
あの日を境にして、帝は変わった。
―やはり、あの姫なのか。
帝を変えたのは公子なのだろうか。
安子は思わずにはいられない。
帝の中には、公子への複雑な感情―相反する想いがひしめき合っている。すべてを灼き尽くほどに烈しい憎しみと、それゆえに惹かれずにはおれらない恋情。二つの焔が帝の中で燃え盛り、帝の心を苛んでいる。
恐らく、二人は出逢うべきではなかったのだ。いつの世にもけして相容れない者たちは存在する。恐らくは帝と公子はそう呼べる者たちなのだろう。
いや、公子が帝を変えたわけではない。帝の中には生まれたその瞬間から、時として怖ろしいほどにまで冷酷になれる―そんな性癖が潜んでいたのだ。その酷薄さが最もよく現れたのが、かつて大切な儀式の最中にお側に控えていた典侍を陵辱し、死なせてしまった事件であった。
冷酷であるがゆえに、心優しい公子に惹かれ、なおかつ、その自分とは全く違う優しさに反発する。亡き桐壺更衣祐子が公子と似通っていることは、安子も既に気付いていた。多分、帝が祐子に惹かれたのも、祐子を通して公子の姿をそこに見ていたからに違いない。
それでも、祐子はまだ従順だった。優しくて大人しやかであり、帝の想いにも応え、一途に恋い慕った。だからこそ、あの二人は幸福な恋人同士になり得たのだ。
作品名:虫めずる姫君異聞・其の二 作家名:東 めぐみ