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虫めずる姫君異聞・其の二

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「母上、俺は公子がただ欲しくて、手に入れたいと申しているのではありませぬ。初めて出逢った幼い日から、公子は俺の中にどっかりと棲みついた。俺が帝であろうとなかろうと、あの姫は臆することもなく堂々と物を言う。そんなところが腹立しくもあり、また珍しくもあるのです。これまで姫にはとかくの風評がありました。一生嫁ぐことも叶わぬ身だと世間では言われ、姫自身、どこかに嫁ぐことなど思いもよらなかったでしょう。当人は日陰の身で一生を終わるか、さもなくば、どこぞの尼寺に行くつもりだと、確かそんなことを左大臣から聞いたことがあります。それゆえ、俺もあの姫のことは諦めていました。しかし、公子が思いもかけず、人並みに嫁ぐことができると判ったのですから、一生傍に置いて末永く慈しんでやりたいと思うようになったのですよ」
―一生側に置いて、末永く慈しんでやりたい。
 果たして、公子が帝のその言葉をどのように受け止めるか。恐らくは、公子は帝の意を拒絶するに違いない。あの潔癖な、烈しい気性の娘であれば、自らの死をもってでも帝を拒むだろう。
 安子は最悪の事態を引き起こすことをひたすら怖れた。
「帝、もう一度だけ、よくお考えになっては下さいませぬか」
 縋るように言う母に、帝は尊大な口調で言った。
「もう、決めたことです。それに、母上、あなただって、公子が俺の妻になれば良いのではありませんか。昔から母上はあの姫を殊の外気に入っておられましたからね」
 帝は言うだけ言うと、立ち上がった。
「今日はこれから廷臣たちと会議がございますので」
 優雅に一礼すると、袴の裾を捌き、ゆったりとした脚取りで部屋を出てゆく。
 公子は心優しい娘だ。安子の見舞いのため参内したあの日、公子は雪柳の花をひと枝自ら持参した。安子はそのことを公子との対面の後から女房に聞いて知った。
 自ら庭に降り、そのひと枝を伐ったという。
 恐らくは美しい花を眺めることで、少しでも安子の気鬱が晴れればとの心遣いだろう。安子は自室にその雪柳のひと枝を飾り、朝に夕に眺めて過ごした。純白の白い花は冬に降る雪を彷彿とさせ、じっと見入っていると、何やら心までもが浄らかな雪に洗われて、清浄になってゆくような心持ちがした。
 あの優しい娘をみすみす不幸にはしたくない。たとえ血を分けた我が息子があの娘を欲していたとしても、公子を泣かせたくはなかった。
 安子は、これから起こるであろう悲劇を想像して、暗澹たる想いに陥った。
 夕陽が蔀戸を通して差し込み、上畳に渦模様を描いている。くらりと軽い眩暈を起こし、安子は畳に手をついて辛うじて我が身を支えた。
 
 四の巻
 
 公子は落ち着かぬ様子で周囲を見回した。
―ここは一体、どこなのだろう。
 帝がたった一度だけ姿を見せてから、更に三日が経っている。あれからは顔を見ることもなく日が過ぎており、幾ばくかは安心して毎日を過ごしていたのだが、今日は夕刻近くになって突然、見たこともない部屋に連れてこられた。
 磨き抜かれた廊下を随分と歩き、辿り着いたこの部屋は広くて立派だ。今日、公子をここに案内したのは、大宮御所で安子に仕えているあの年老いた女房であった。
 公子がここはどこなのか訊ねて、何も応えず、逃げるように去ってしまった。
 だだっ広い部屋の奥に立派な御帳台がある。その、いかにも貴人のものらしい御帳台を見ている中に、唐突に公子の中を厭な予感がよぎった。
―まさか、ここは帝の寝所では―。
 狼狽して慌てて部屋を出ようと両開きの扉に手をかけたその時、背後の燭台で燃える蝋燭の火が揺れ、ジジと音を立てた。
 誰かがいる。公子は全身を竦ませ、恐る恐る振り向いた。そして、御帳台の前にひそやかに佇む人影を認め、悲鳴を上げた。
「あ―」
 まるで奈落の底に突き落とされたかのような気分だった。帝の姿が落日の陽に長い翳となって夜の御殿に流れ込んでいる。広い部屋にある明かりといえば、その燭台の頼りなげな灯りだけで、隅の方は薄い闇が溜まったようにどんよりと暗い。その全体的にほの暗い部屋には淡い闇が垂れ込めているようでもあり、帝はまるでその闇が凝(こご)って人の形を取ったように、背後の闇に溶け込んでしまいそうなほどひそやかに立っていた。
 まるで帝の背後には無限に続く闇の世界がひろがっているようで、不気味だ。
 その形良き双眸もまた彼を取り巻く無明の闇をそのまま映し出しているかのようで。
 公子は無意識の中に首を振りながら後ずさっていた。帝がじりじりと間合いを詰めてくる。公子が後ずされば後ずさるほど、帝は近付いてくる。
 やがて背が固い扉に辺り、公子は自分が極限まで追いつめられたことを知った。
 恐怖で叫び出しそうになる。絶望で心が張り裂けそうだ。
「どうした、何故、逃げる? 姫はそんなに俺が嫌いか?」
 ぞくりとするような寒気を含んだ声で言った次の瞬間、帝は唐突に別人のような優しげな笑みを浮かべた。
「俺のものになれ、公子。そなたと俺は出逢ったときから、こうなる運命だったのだ。大切にしてやるし、そなたが大人しく俺のものになるというのであれば、妻は生涯そなただけだと今、ここで誓うても良いぞ」
 公子は厭々をするように首を振る。
「止めて、私は、主上のお側に上がるつもりはありません。お願いだから、私を父の許にお返し下さいませ」
「まだ、そんなことを言っているのか」
 帝の声がゾクリとするような冷たさを帯びる。
 更に帝が一歩踏み込んでくる。公子はたまらず帝に背を向け、木戸を開けようとしたけれど、外から閂でもかかっているのか、公子の力では固い扉は動きもしない。
 公子は両手で力一杯叩いた。
「お願い、誰か、助けて! 誰か、来てっ」
―私、厭なのに。厭なのに、どうして―。
 誰もが自分の意思なぞ端からないもののようにふるまい、この男の許へと公子を連れてゆこうとする。
―お父さま、助けて。私はここにいるのに、どうして迎えに来て下さらないの。
 公子は心の中で父に助けを求めた。
 涙が溢れ、大粒の涙が白い頬をつたう。
「公子、そのようなことをしても無駄だ。ここは内裏だそ? 帝たる俺がそなたを望むのだ。たとえそなたがいかほど泣いて助けを求めたところで、誰も助けには来ぬ。観念して、大人しく俺のものになれ」
 突如として後ろから羽交い締めにされ、公子は悲鳴を上げた。
「いやっ、止めて。こんなこと、お願いだから、止めてえーっ!!」
 渾身の力を込めて抗ってみても、逞しい帝の腕に公子の動きは難なく封じ込められてしまう。
「やわらかな身体だ」
 帝が恍惚りしたような表情で呟く。
「ああっ、痛いっ」
 あまりにも強い力で抱きすくめられ、公子は痛みに呻いた。
 苦しくて、息ができない。
「酷い、どうして、こんなことをするの?」 公子は泣きながら訴えた。
「公子、俺は何もそなたを苦しめるつもりはない。ただ、そなたを愛しいと思うているだけなのだ。な、頼むから、俺の気持ちを受け容れてくれないか」
 熱い吐息混じりの声が耳許で囁く。
 帝は公子から手を放すと、そのか細い身体を自分の方へと向かせる。両手をかけて引き寄せると、その顔を覗き込んだ。