虫めずる姫君異聞・其の二
大粒の涙が白い頬をころがり落ちてゆく。
「姫、先日のことならば、何も泣くようなことでもないし、恥ずかしがる必要はない。あれはごく自然なことなのだから」
止めて欲しいと思った。男性にあんな場面を見られ、気を失って介抱されたことだけでも恥ずかしいのに、面と向かって、あのときのことを口にされるのはたまらない。
「止めて! 止めて下さい。その話は」
消え入るような声で言った公子の頬が羞恥のあまり、うす紅く染まった。身も世もない心地の公子を見て、帝が笑った。
「姫は本当に可愛い。別段、恥ずかしがるような話でもないだろうに。姫、姫はこれからはもう世の心なき噂に悩まされる必要もないのだよ。俺はむしろ嬉しい。姫がこれで俺の子を産めることが判ったのだから」
「―」
公子は蒼白になった。
今、この男は何と言った?
―姫が俺の子を産めることが判ったのだから。
耳奥で忌まわしい言葉が幾度もこだまする。
―厭ッ。私は、絶対に厭!!
考えるだに、厭わしい。触れられただけでも厭でたまらないのに、この男の子どもを産むなどと想像しただけで怖ろしさと絶望に気が狂いそうになる。
―私は一体、どうして、こんなことになってしまったの?
公子には今一つ解せなかった。父がどうして助けに来てくれないのかが判らない。
これまで父は公子が厭だと言えば、何を強制したこともない。今だって、公子が内裏になどいたくないのだ、こんな男の傍にはいたくないのだと言えば、すぐに連れて帰ってくれるに相違ない。
皇太后の見舞いに参内した公子を帝が勝手にそのまま内裏に監禁してしまったことを父が知れば、さぞや怒ることだろう。多分、父はまだ何も知らないのだ。もしかしたら、この卑劣な男は公子が自分から内裏にとどまりたいと言っている―なぞと偽りを並べ立て、父を騙しているのかもしれない。
そう、だから、父が迎えにきてくれないのだ。父はこの男に良いように騙されている。
「父に、左の大臣に言います。私は理不尽にここに閉じ込められているのだと父にひと言いえば、父はすぐに私を屋敷に連れ帰ってくれるはずです」
公子が必死の想いで言うと、何がおかしいのか、帝がふいに笑い出した。
まるで公子を頭から馬鹿にしたような嗤い声が不愉快でたまらない。
「こいつは良い。お前、まだあの親父を信じてるのか」
帝は嗤いながら、懐から懐紙に包んだ小さな包みを取り出した。
「姫の好物は干菓子だそうだな。その歳で甘い物に眼がないなんて、本当に子どもみたいな姫だ。俺の許にいれば、甘いものでも何でも好きなだけ食べさせてやるぞ? 夏には皇室でしか使えない氷室から切り出した氷を砕いて、甘葛(あまずら)の汁をかけて食べさせてやる。甘い物だけではない、欲しい物があれば、衣でも櫛でも紅でも、何でも取り寄せてやる」
「―そんな物、要りませんし、食べたくありません」
公子が頑なに唇を引き結ぶ。
帝が鼻を鳴らした。
「そうか、ならば良い。強情を張っていられる中は張っていれば良い」
帝がふいに立ち上がった。
ポンと無造作に眼の前に投げてよこされた包みは、つい今し方、帝が懐から取り出した懐紙である。
「中を見てみるが良い」
公子は訝しみながらも、その小さな包みを拾い上げた。包みを開くと、中から現れたのは公子の大好物―、菊の花を象った干菓子だった。
「姫がこの干菓子が大の好物だと俺は誰から聞いたか、教えてやろう。そなたの父道遠から聞いた話だ。姫は干菓子の中でも殊にこの菊の形をしたものが好みゆえと、教えてくれたのだ。そなたが毎日、家に帰りたいとむずかってばかりいて、俺が困っていると告げてやったら、その話を道遠が俺にした。左の大臣は上機嫌で俺に言ったぞ。我が娘をよろしく頼みますとな」
「嘘、嘘」
公子は奈落の底に突き落とされたような心持ちだった。
こんな卑劣な嘘つき男の言葉を信じてはいけない。父が、道遠がそんなことを言うはずがないのだ。これもすべては、この男が公子を惑乱させ、家に戻ることを諦めさせようと画策しているだけにすぎない。
騙されてはいけない。公子は懸命に我が身に言い聞かせた。
「道遠が姫のその一途なまでの信頼を裏切らぬことを祈るとしよう」
帝の冷たい視線が真っすぐに見下ろしてくる。公子は唇を噛みしめ、その視線を受け止めた。
身体が恐怖に竦みそうになるのを、内心の動揺と怯えを悟られまいと夢中で押さえ込む。
帝はなおも公子を感情の読み取れぬ瞳で見つめていたかと思うと、あっさりと背を向けた。
帝の上背のある後ろ姿が部屋の外に消えると、公子は急にへなへなとその場に頽れた。
まるで空気の抜けた紙風船になってしまったかのように、漲っていた緊張も不安も霧散してしまった。
外はうららかな春の陽が差しているというのに、公子の心は真冬の陰鬱な曇り空のように暗い。蔀戸を通して明るい陽光が部屋内にまで差し込んでいるのに、部屋の中はどす黒い影に覆い尽くされているように思えた。
枕許には乱れ箱が置いてあり、萌黄の襲がきちんと畳まれた状態で置かれている。この襲は公子が数日前、参内したときに身に纏っていた衣装だ。この数日間というもの、装束を身につけることもなく、薄い夜着一枚で過ごしてきた。着替える気にもならず、布団の中に潜り込んで泣いてばかりいたのだ。
それにしてもと、公子は今更ながらに薄い夜着一枚だけの身体をあの帝にあちこち弄られたことを思い出す。
公子は帝が何故、そのようなことをするのか理解できない。既に二十歳という年齢に達してはいても、漸く遅い月のものを迎えたばかりの公子は男女間のことも性的な知識も何も知らなかった。月のものもない不具者と言われていた公子は誰に嫁ぐこともなく生涯を終えるつもりであった。それゆえ、亡くなった乳母もお付きの女房相模も公子にはそういったことを一切教えなかったのだ。
公子自身、自分はいずれ落飾して尼寺へと考えていた。とはいえ、恋愛沙汰に全く興味はがなかったわけではない。若い女房たちが恋人の話に盛り上がっているのを傍で洩れ聞いたときには、自分までがどきどきしてしまったし、何度かは恋物語を描いた草紙を読んだこともある。もし仮に我が身が草紙の女主人公のように美人で、人並みの結婚を望める身体であれば、生涯にただ一人の相手とめぐり逢い、烈しい恋に落ちて結ばれる―というのも悪くはないと思う。いや、きっと、そういう生き方が女としては幸せなのだとも思う。
だからこそ、桐壺更衣祐子と帝の恋愛譚を聞いた時、心から愛し愛された祐子を少しだけ羨ましいと思ったのだ。
しかし、現実として、公子は人並みの結婚は考えられず、そのような恋物語は所詮は、公子にとっては夢物語にすぎない。ゆえに、公子は難しい漢籍は理解できても、男女の事が何たるかさえ判っていないのだ。
それでも、帝に触れられたときに身体を突き抜けたあの嫌悪感、本能的な恐怖だけはひとひしと感じた。公子が幾ら厭だと訴えても、卑猥な笑みを浮かべたあの男に身体のあちこちを撫でられたときのことを思い出し、また不覚にも涙が滲んでくる。
作品名:虫めずる姫君異聞・其の二 作家名:東 めぐみ