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約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ

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 固く閉じていた眼を開いた時、莉彩は我が眼を疑った。眼前にひらけているのは、確かに見憶えのある風景に他ならなかった。
 人気のない道、小さな店がぽつり、ぽつりとまばらに建つ町外れの川にかかる名もない橋のたもとに彼女は立っていた。
 五百六十年先の日本にも、この付近にとてもよく似た場所がある。莉彩はついたった今まで、そこにいたはずだ。なのに、たった一瞬で、全く違う国の違う時代へと来た。
 そう、莉彩は再び時を越えたのだ!!
 それは二度と起こらないであろうと諦めていた奇蹟だった。
 たまに思い出したように傍を通り過ぎてゆく人が怪訝な表情で莉彩を見ている。
 どの人もがかつて見たように、朝鮮王国時代の服装をしていて、現代の韓国でも見かけないようなものだ。莉彩の母が好んでよく見る韓流時代劇にしか出てこないような時代がかった衣裳である。
 ああ、十年前、初めて時を飛んでここに来たときには、眼の前が真っ暗になるほどの衝撃を受け、絶望した。なのに、今はどうだろう。
 この人たちが、この国が、この時代が懐かしくてたまらない、まるで、十年ぶりに本物のふるさとに帰ってきたみたいだ。
 その時、莉彩は改めて思った。
 この時代こそが自分の帰るべき時代であり、場所なのだと。
 一瞬、今朝見たばかりの母のいかにも心配そうな顔が浮かぶ。
―莉彩が十年前みたいに急にいなくなってしまったら、どうしようかと心配で居ても立ってもいられなくなるの。
 現代にいる両親のことを思えば、心は揺らぐ。しかし、今、この時代に戻ってこられたからといって、今回もまたいつまでとどまることができるのかは判らない。
 今は、ただ、あの男の生きるこの時代に再び来られたことを素直に歓ぶべきだろう。
 頬をつねってみる。大丈夫、ちゃんと痛みを感じる。これは夢ではなく、紛れもない現実なのだ。
 莉彩は慌てて周囲を眺め回す。だが、待ち人の姿はどこにもなかった。莉彩の胸に失望がどっと押し寄せる。
―私ったら、馬鹿ね。
 莉彩は自分を嗤った。
 仮にこれが夢ではなく、紛れもない現実だとしても、あの男が十年経った今も心変わりしてないと、どうして言える?
 それに、今があれから―王と別れてから十年後の時代なのかどうすらもまだ判らない。あの時代と近い時代でも、全く同じではないかもしれない。
 十年前、莉彩がこの時代にいたのは四ヵ月余りだったにも拘わらず、現代に還ったときには十数日しか経過していなかった。つまり、こちらとあちらでは時の流れるスピードが違うのだ。現代で十年きっかり過ぎたからといって、こちらの時代でも十年経ったとは必ずしも言えまい。
 もしかしたら、運良くあの男に逢えたとしても、あの男は赤ン坊かもしれないし、その逆に、とんでもない老人になっているかもしれない。
 莉彩が怖ろしさと不安に苛まれている時、ふいに背後から肩を掴まれた。
「娘さん」
 ハッとして振り返ると、莉彩とさして歳は変わらないであろうと思える若い男が佇んでいた。
「どこから来たかは知れねえが、そんな妙ちくりんな格好で町中を歩いてたら、男どもに襲ってくれと自分から誘いかけてるようなものだぜ?」
 粗末な身なり、頭に薄汚れた鉢巻きをしていることから、その日暮らしの労働者だと判る。
「俺の家に来いよ。服くらいなら、古着屋で買ってやるからよ、なっ」
 素早く手を掴まれ、物凄い力で引っ張られた。
「は、放して」
 莉彩は悲鳴のような声を上げた。
 弾みで、莉彩の抱えていたリラの花束が地面に落ちた。その拍子に、花びらが散り零れる。
 男の手を振りほどこうとするけれど、まるで蛇が絡みつきでもしたかのように執拗に放れない。
「行く当てがねえのなら、ずっと家にいたって、俺は構やしねえんだぜ。俺は女房もいねえし、お前のような別嬪がずっと家にいてくれたら―」
 嫌らしげな薄笑いが男の顔に浮かんでいる。陽に灼けた貌は精悍といっても良いのかもしれないが、どことなく全体的に退廃的な感じのする男だ。大方は、見かけどおりの崩れた生活を送っているに相違ない。
 男の言葉が突如として途切れた。
「その女人に触るな」
 鋭い一喝が飛ぶ。莉彩が弾かれたように顔を上げると、莉彩の手を掴んだ男が逆に誰かに腕をねじり上げられていた。
「い、痛ぇな」
 男が顔を思いきりしかめる。
「生憎だな、この女は俺が先に眼をつけたんだから、俺のものだ」
 それでもまだ莉彩から手を放そうとせぬ男の腕が更にねじ上げられた。さして力を入れているようには見えないのに、ねじり上げられた男の顔は見る間に苦痛に歪み、血の気を失ってゆく。 
「う、腕が折れるじゃねえか」
 男が悲鳴を上げた。
 漸く男の手が放れ、莉彩はその隙に急いで男から離れる。
「お、おいッ、お前」
 しつこく逃さじと莉彩を追いかけようとする男の前に長身の男がスッと佇む。
 どうやら、莉彩の窮地を救ってくれたのは、この男のようだ。
「貴様のような汚い手でこの女に触れてはならぬ」
「ヘン、色男ぶりやがって。憶えてやがれよ」
 こんな場合、大抵、負け犬が口にする科白を吐いて男は這々の体で去っていった。自分では、この男の相手にはならないと読んだのだろう。
 莉彩は震える声で訊ねた。
「危ないところを助けて頂いて、ありがとうございます。もしや、あなたさまは―」
 上背のある男が目深に被っていた鐔の広い帽子をおもむろに持ち上げた。朝鮮王国時代に特有の帽子である。顎紐に当たる部分に、玉を連ねた首飾りに似た紐を付けている。
 切れ長のすっきりとした二重瞼、涼しげな双眸が露わになった。
「あ」
 莉彩は声にならない声を上げた。
「殿下」
 声が、戦慄く。
 意思の強さと思慮深さを表すかのような濃い形の良い眉も、整った鼻梁も何も変わらない。ただ歳月が彼に与えたのは、眼尻のかすかな皺と、口周りにたくわえた髭のみであった。十年前は淡い桃色の服を着ていることの多かった王が今は、蒼色の服を纏っている。
 夕刻と夜のあわいの空のような、深い水の色を思わせるような落ち着いた蒼が端整な美貌によく似合っている。いかにも国王らしい威厳さを増したように見えるのは、何も十年前にはなかった髭のせいだけではないだろう。
 月日は、彼の上にも確かに流れたのだ。
「待っていたぞ、莉彩」
 王の声もまたかすかに震えていた。
「その花は」
 王の視線が地面に落ちたままのリラの花に向けられる。莉彩はしゃがみ込んで、無惨に散らばったリラの花を一本一本拾った。
 何本かは駄目になってしまったけれど、まだ、しっかりと花をつけている枝は残っている。
「リラの花にございます」
「これが、そなたの話していたりらの花か」
 王がそっと手を伸ばし、リラの花を一輪だけ受け取った。薄紫の可憐な花にそっと口づける。
「りらの花の咲く頃、ここで逢おう―、そなたは、あの約束を忘れてはいなかったのだな」
 王がひと言、ひと言を噛みしめるように言った。
「愚かなようだが、私は今年になってからというもの、毎日のようにここに来た。裏門からこっそりと、まるで逢い引きにゆく若者のようにいそいそと橋のたもとに通い続けていた」
「では、殿下、今は私たちがお別れしてから―」