約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ
「だからこそ心配なのよ。急にママやパパの顔を見たくなっただなんて、また、莉彩が前みたいに急にいなくなったら―」
そこで、母は口を閉ざした。
昨夜もこれと似たやり取りがこのキッチンで交わされたばかりなのを思い出したのだろう。
―ママはいつも心配なの、莉彩が十年前のときのように急に私たちの傍からいなくなったら、どうしようと思っただけでも居ても立ってもいられなくなるのよ。
しかし、そのときは父の一喝で会話は中断された。
―止さないか!
父の怒鳴り声は、あまりにも不自然だった。母のたったひと言だけで、普段はあまり感情を表に出さない父が取り乱した。そのこと自体が、父もまた母と同じように内心はひそかに十年前の娘の失踪をいまだに重く受け止めているのだと証明しているようなものだ。
そのせいで、和やかだった夕食はまるで通夜のように沈んだ最悪の雰囲気となってしまい、父も母も莉彩もがひたすら黙ってシチューをスプーンで掬い続けた。
またしても静まり返ったその場を取り繕うかのように、母が甲高い声で静寂を破った。
「ね、お夕飯はうちで食べていくんでしょ」
「うん、でも、七時きっかりの飛行機に乗らないといけないから、ちょっと難しいかな」
自宅からY空港までは車で一時間半はかかる。父の帰宅を待っていたら、七時の飛行機に乗るのは難しくなるだろう。
Y空港から直通便で二時間で北海道に着く。莉彩は大抵は、短時間で行き来できる飛行機を利用している。
「あら、でも、パパは一緒にお夕飯を食べようって言ってたじゃないの」
母は不満そうに口を尖らせる。母は今年、五十三になった。娘の莉彩から見ても、五十三には見えない、若々しい母だと思う。母は莉彩が幼い頃から〝パパ、ママ〟と呼ばせていた。まだ小学校低学年頃までは素直にそう呼んでいたのに、いつしか友達の前で〝パパ、ママ〟と呼ぶのが恥ずかしくなって止めてしまった。
莉彩がとっくに止めてしまった今でもまだ、母は莉彩の前で自分のことを〝ママ〟と呼んでいる。でも、莉彩は、そんな母が嫌いではなかった。レースのエプロンが似合って、得意な料理はハンバーグとシチューで、韓流ドラマが大好きな母。
母にもし、莉彩が五百五十年前の朝鮮にタイムトリップしたのだと話したら、どんな顔をするだろうか。幾ら夢見がちな母でも、まさか本気にはしないだろう。
それでも、莉彩は母に話してみたくなるときがあった。
―お母さん、私、心から愛する男ができたの。
と。
だが、それは、けして口にしてはならない科白だ。あの男のことは、あの出来事は誰にも話さないと莉彩は決めていた。
莉彩は笑顔で言った。
「夕食はやっぱり、無理そうね。夏にはまた、まとまった休みが取れるのよ。今度は一週間くらいは家にいられると思うから、そのときまで待っててよ」
朝食後、莉彩は友達の家に出かけると言って、自宅を出た。
だが、莉彩の目的は別の場所にある。莉彩は両手にリラの花束を抱えていた。北海道の空港の売店で買ったものだ。
着ているのはパステルピンクのスーツで、普段、通勤に着ているものだ。さしてお洒落心のない莉彩には幾ら頭を悩ませても、これくらいしか晴れ着らしいものは思い当たらなかった。
腰まで届くストレートのロングヘアは後頭部でシニヨンにまとめている。髪にはリラの花を象った簪を一つ。これは十年前、父が韓国旅行の土産にと買ってきたものだ。不思議な露天商が売っていたという年代物の簪は、朝鮮王国時代、とある国王の寵妃が身につけていたものだった。その当時、リラ―つまりライラックが朝鮮に存在したはずはないのに、確かにこの簪はリラの花の形に似ていた。
花びらの部分にアメジストがはめ込まれている繊細で、非常に美しい細工だ。仮に露天商の老人の言葉が真実だったとしたら、現代では値も付けられないほどの価値があるはずなので、父はその逸話は眉唾物だとあまり信じてはいないようだった。
しかし、莉彩は何故かその簪をひとめ見たときから心奪われた。よもや、離れ離れになった恋人同士を再び引き寄せるという不思議な言い伝えのあるその簪が、莉彩を五百五十年前の朝鮮に導くとは想像だにしなかった。
―十年後のリラの花の咲く頃、この橋のたもとで逢おう。
莉彩と徳(ドク)宗(ジヨン)は約束した。
むろん、そんな約束が実現するとは到底思えない。その約束の日がいつなのかすら、莉彩には判らないし、二人の間で交わされたのは、ただそれだけなのだから。
それでも、遠い時の彼方にいるあのひとに逢えないとしても、せめてこの切ない想いの片鱗でも届けることができるならば。
莉彩はそう願って、今日、ここに来た。
そう、莉彩が故郷に戻ってきたのは、約束の場所―Y駅の近くの橋に来るためだったのである。
―殿下(チヨナー)、お約束どおり、私は今日、この橋のたもとに来ました。考えてみれば、今年は殿下とお約束したあのときから丁度十年になるのですね。
莉彩は橋のたもとに立ち、ライラックの花束を抱え、そっと眼を閉じた。この付近は十年前と殆ど何も変わらない。もっとも、この十年で商店街は殆どが店を閉めてしまったようで、休日だというのに、どの店も閉めてしまっていて、中にはもう人すら住んでいない廃屋状態になっているところさえある。
短いようで長く、長かったようで短かったこの十年を莉彩は感慨を込めて思い出していた。
―これが殿下のご覧になりたいとおっしゃっていたリラの花です。
今、この瞬間、あの方は何をなさっているのだろう。きっと国中の民から〝聖(ソン)君(グン)〟と尊崇を受ける名君になられたに違いない。
ああ、お逢いしたい。ただ、ひとめで良いから、あの方にお逢いしたい。
莉彩は無意識の中に、リラの簪に手を伸ばして触れていた。あの方が似合うと言って下さった、この簪。大切な想い出の品。
愛おしむように、まるで恋人の手に触れるかのように、そっと触れる。
そのときだった。
一陣の風が莉彩の傍を吹き抜けていった。
腕に抱えたリラの花びらが数枚、風に乗って飛んでゆく。ひらひらと舞い流されてゆく薄紫の花びら。
莉彩は思わず、高く舞い上がった花びらを眼で追った。その刹那。
ユラリと視界が歪んだような―気がした。
風に舞う花びらが濁流に呑み込まれてゆくように、ある一カ所から消えてゆく。それは不思議な光景だった。空間に小さな小さなひずみが生じて、その穴に花びらが呑み込まれてゆくような感じだ。
息を呑んでいる中に、その穴はどんどん大きくなってゆく。莉彩は花びらだけでなく、自分までもがその穴に吸い込まれてしまうのではないかと怖れた。
その間にも周囲の光景は、ますます歪んでゆく。目眩でもしたのかと訝しむ莉彩の周囲の空間がまるで圧縮されたかのように急に濃度を増す。
キーンと耳障りな音が聞こえ、莉彩は思わず耳を押さえた。まるで突如として、水の中か無酸素状態の場所に投げ込まれたかのようだ。自分を保っているのがやっとという有様だったが、それは長くは続かなかった。
時間にしてみれば、わずか数秒のことだったろう。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ 作家名:東 めぐみ