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約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ

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 だが、最後まで言えなかった。
 慎吾が途中で遮ったからだ。
「良いよ。莉彩の応えは最初から判ってたさ」
 慎吾は短く言うと、それきり口を噤んだ。
 また、短い沈黙があり、思い切ったように言う。
「それから、俺がこんなことを言うのはおかしいかもしれないんだけど、莉彩、そいつと上手くいってるのか?」
 慎吾の言う〝あいつ〟というのが莉彩の好きな男だというのはすぐに判る。
 莉彩は小さく息を吸い込み、やっとの想いで笑顔を作った。
「だから、私は、やっぱりニューヨークには付いていけない。和泉君なら、私のような何の取り柄もない平凡な女じゃなくて、もっと素敵な女(ひと)が見つかるわ」
「何だよ、それ。それなんじゃ、全然、応えになってないぞ」
 慎吾は肩をすくめ、笑いながら言った。
 が、すぐにその笑顔を曇らせる。
「何だかな、今のお前を見てたら、少しも幸せそうじゃないんだよ。格好つけるわけじゃないけどさ、俺は莉彩が本当に幸せになれるのなら、涙を呑んで身を退く覚悟はいつだって、できてる。でも、今のお前って何だか、苦しい恋をしてるように見えるんだ。俺と同じで、手の届かないものに焦がれてるような、そんな感じかな。だから、そいつとあんまり上手くいってないんじゃないって、勝手に想像したんだけど」
 慎吾が心底から心配してくれているのが伝わってきて、莉彩は思わず熱いものが込み上げた。
「相変わらず優しいんだ、和泉君。私はいつも思ってたのよ。私は和泉君と違ってスポーツも勉強もどれもパッとしないし、特に綺麗ってわけでもないでしょ。なのに、何で、和泉君みたいに格好良い彼がいるのかなぁって、自分のことなのに他人事みたいに不思議に思ってた。和泉君には、私はふさわしくないよ。和泉君と並んで歩いてたら、ピッタリの女だねって誰もが振り返るくらいの素敵な子がどこかにいるはずだから」
「おっと、そんなことを言うのはナシだぜ。俺は十年以上前から、莉彩だけをずっと見つめてきたんだ。そんな男に私よりもあなたにふさわしい女がいるなんて逃げ口上は通用しないよ。それから謝るのもナシ。莉彩、お前な。自分がどれくらい残酷なことを言ってるか、全然自覚してないだろ?」
 わざと冗談めかして言っているのが慎吾なりの精一杯の思いやりなのだ。
「―ごめん」
 謝るしかない莉彩を、慎吾が軽く睨む。
「だから、言っただろ。謝るのは止してくれ」
「判った」
 莉彩は微笑んで頷いた。
 その五分後、二人は〝ミルフィーユ〟の前で別れた。
 ミルフィーユとは、幾層にも重ねて焼き上げた洋菓子を意味する。莉彩と慎吾は、共に過ごした歳月の分だけの想い、二人だけの特別な何かを積み重ねることができなかった。それが、別離の最大の原因なのかもしれない。
 だが、その責任の一端が自分にないと、どうして言えるだろう?
「じゃあ、元気で」
 慎吾が言い、片手を上げる。
「和泉君もね」
 莉彩もまた笑って手を振る。
 これが十三年間の結末なのか。だとすれば、あまりにも呆気ない終わり方だった。多分、ここで別れたら、慎吾とは二度と逢うことはないだろう。何故だか、莉彩はそんな気がした。
 背を向けて歩き去る慎吾とは逆方向に向かって、莉彩もまた歩き出す。どれくらい歩いただろう、ふいに呼び止められた。
「莉彩」
 莉彩は立ち止まり、首だけをねじ曲げるようにして振り向く。
 五十メートルくらい前方に、慎吾が何かに耐えるような表情で物言いたげに立っていた。
 莉彩は思わず涙が込み上げてくるのを懸命に堪(こら)えて、微笑んで手を振る。力一杯、手を振る。幼稚園の頃、大好きだったクラスの先生が結婚退職するときに泣きながら見送ったように涙ぐんで手を大きく振り続けた。
 慎吾がニッと笑う。そんな彼の眼にも光るものがあった。慎吾は二、三度手を振り返すと、後は踵を返して逃げるように走り去った。
 まるで、ずっとその場にいたら、そのまま石になって動けなくなってしまうとでもいうように。
―さようなら、和泉君。さようなら、私の青春。
 慎吾との月日が今、本当の意味で終わったのだ。初恋とも呼べないような淡いものだった。もし、慎吾への想いを恋とは呼べないともっと早くに莉彩が気付いていたなら、こんな風に彼を深く傷つけることはなかっただろうに。何もかも、莉彩の幼さ、未熟さが招いた悲劇だった。
 莉彩は慎吾の姿が見えなくなっても、ずっとその場に立ち尽くしていた。
 駅前の雑踏の中で立ち尽くす莉彩の傍を通行人が慌ただしく通り過ぎてゆく。
 四月、北海道は薄紫のリラの花が咲き匂う。
 どこからか風に乗って微かに流れてくる花の匂いを莉彩は胸深く吸い込んだ。

 その翌日は土曜日なのを利用して、莉彩は帰郷した。盆休みでも正月休みでもないのに突如として帰ってきた娘をむろん両親は歓迎した。
 今回ばかりは母も例の〝○○さんのお宅のお嬢さんは縁談が決まったそうよ〟という科白がなかった。そのことで、父も母も二人ともに莉彩の突然の帰宅に何かを感じているらしいことは知れた。
 それでなくとも、莉彩は十年前に一度、謎の失跡を遂げている。その失跡というのは言わずもがな、朝鮮王国時代にタリムトリップしていた期間だったのだが、むろん、両親がその真相を知るはずもなかった。両親は、莉彩が何者かに連れ去られ、連れ回されていたか監禁されていて、そのときの恐怖のあまり記憶を喪ってしまった―という莉彩の作り話をそのまま信じている。
 安藤家では、十年前のその事件は禁句になっていた。あの忌まわしくも怖ろしい事件を話題にすることで、両親はあのときの記憶が甦り、またしても大切な娘を失うのではないかと暗に怖れているかのように見える。
 不思議なもので、血の繋がりとは、たとえ真実を知らなくても、敏感に何かを察知するものなのだろうか。
「珍しいのねぇ。莉彩が特別な休みでもないのに、帰ってくるなんて」
 翌日の日曜の朝、母の加容子(かよこ)がキッチンでトーストを焼きながら言った。
 父は早朝から、社長や専務とゴルフに出かけていて、莉彩が二階の自室から降りてきたときには既にいなかった。
「たまには私だって、お父さんやお母さんの顔を見たくなることだってあるわよ」
 莉彩が大真面目に言うと、母は焼きたてのパンを載せた皿をドンと音を立ててテーブルに置いた。
「ねえ、莉彩。あなた、顔色が良くないわよ。昨日、帰ってきたときから気になってはいたんだけど、会社勤めの疲れのせいかなと思って、様子を見てたの」
「気のせいよ、お母さん。本当にもう昔から心配性なのは変わらないんだから」
 莉彩は笑いながら、まだ熱いパンに囓りついた。
 コーヒーメーカーから淹れたてのコーヒーの香りが立ち上り、鼻をくすぐる。よく焼いたベーコンと目玉焼きにグリーンサラダ。いつもの何ら変わりない我が家の食卓の風景だ。
「大体、いつもはろくに家に寄り付きもしないあなたがこんな風に家に帰ってくること自体が変なのよ」
 母の言葉に、莉彩は苦笑する。
「失礼ね、お母さんたら。それじゃ、私が都合の良いときだけしか顔を見せない自分勝手な娘のようじゃない」
 母はそれに対しては否定も肯定もしなかった。